森茂樹物語
1.生い立ちの記
父の死と母の決心
「月日の過ぎるのは早いものです。私が淡路の漁村を跣足でかけておった時から三十年。早いものです。人の性質や性行は天性もありますが生後の境遇が大いに関係しております。天地は悠々と運行しております。人事と無関係のように!人生は愛や怨や熱さの多いほど人間味があり、面白いのです。生き甲斐もあるのです。その点私らの家庭は最も恵まれたものと思ひます」
これは神戸学院大学の創設者・森茂樹が1928年2月、35歳の時、留学先のプラハで義兄・山西助一と姉・山西登志得あてに書いた手紙の一部である。「人の性質…は生後の境遇が大いに関係している」とは、誰もがうなずくことだが、森茂樹のような育ち方をした人物が書くと、彼が人生で背負ってきたものの重さが現れてくるように感じられる。茂樹は、人生の始まりから厳しい「生後の境遇」の真っただ中に置かれていた。
森家は淡路島の中央部に位置する兵庫県津名郡山田村草香(現在は淡路市一宮町)の旧家で、金持ちというわけではなかったが、家には使用人も置いている食べることには困らない家であった。父・新太郎は警察官で、新太郎の両親は既に他界していたが、80歳を超えた曾祖母・たみがおり、母・わさと長女・登志得(としえ)、次女・四津野(しづの)の2人の幼い女の子がいた。まだ20歳代の両親の初めての男の子として茂樹は生まれ、平和な家庭ですくすくと育つはずであった。
しかし、茂樹の生まれるわずか1カ月前の1893(明治26)年1月28日に新太郎は29歳の若さで死去し、2月26日に、夫を失って失意のどん底の母から彼は生まれた。19世紀末、若くして病死する人は多く、子どもを抱えて夫に先立たれた女性の行く末は困難だった。女性に自立の道が殆どない時代、たいていの場合、再婚し、子どもと離ればなれになってしまうことも多かったのだ。そして多くの夫を亡くした女性が、こうした世間の大勢に従い、引き裂かれた母子は心の傷を負って生きてゆかねばならなかった。
それが当たり前だった時に茂樹の母・わさは、何とか子どもたちを自分の手元で育てようと考えた。舅姑か、夫の兄弟がいれば、彼らに助けてもらうこともできただろうが、夫に親兄弟はなく、4歳を頭に3人の子どもを育て上げる責任は、まだ24歳の若いわさにかかった。
淡路島の田舎で女性が家族を養うに足る収入を得られる仕事は限られている。わさが目指したのは学校の教師になることだった。教師になれば、少なくとも生活に足るだけの俸給がもらえる。学業成績優秀だった彼女には十分その資格があると思われたが、学校は小学校に通っただけであり、資格を取るには多くの勉強をしなくてはならなかった。わさは森家の田畑で、夫が居た時と同じく懸命に働き、子どもの育児と高齢の曾祖母の介護をしながら勉強した。夫の死の翌年、曾祖母が亡くなってからは、子どもたちを一時実家の岬家へ預けて、東京へ勉強に行くなど本格的に学んだ。
図は長じて美術を学んだ長女・登志得が描いた淡路島時代の一家の絵である。一番小さい子が茂樹で、幾分弱々しく、また、心なしか寂しそうに見える。彼は生まれた時から、母が働いている姿と勉強している姿しか見たことがなかったに違いない。甘えたくても甘えることができない母、いつも忙しすぎる母。しかし、自分たちの将来が母の頑張りにかかっていることを知る彼ら3人姉弟は子どもなりに多くのことに耐えていた。
前掲のプラハからの手紙には、先に引用した箇所に続けて、次のように書いている。
「冬の大荒れの夜磯辺をうつ濤の音を聴く物凄い感じは貴族や富豪の味へない情調です。土筆をとりに手を引いて春野の田の畝を歩きまはったり、たにしをとりにいった事はほんとに尊い事です。然し小さい霊には淋しさや孤独や弱さやとしみじみ味ふような事が沢山あったと思ひます。」
「小さい霊」とは子ども時代の茂樹のことだろう。若い母と子どもだけの家で夜半の猛烈な風に荒れ狂う波の音は恐ろしく、心細かった。自然豊かな田園風景の中、ツクシを採ったり、タニシを捕ったり、漁村を裸足で走り回ったりといった家族の楽しい思い出もあるのだが、淡路島で過ごした幼い日々は、寂しく孤独な思いに満たされていた。
淡路島から神戸へ
茂樹が4歳の時、わさは努力の甲斐あって小学校専科準教員検定に合格し、淡路島西部に位置する郡家(ぐんけ)にあった津名郡第五津名高等小学校の裁縫専科教員になった。高等小学校は小学校卒業者が進学して2~4年間学ぶところで、地域では格式の高い学校と認識されていた。時に、わさは29歳。子どもたちを手元で育てる環境を自力で勝ち得たのだった。そして翌年には、兵庫県の裁縫教員の資格を取った。
おそらく、普通の女性だったなら淡路島の高等小学校教員として働き、子どもの成長を見守りながら平穏に故郷の村で年老いていったのだろう。しかし、わさは違った。わさは高等小学校の教員を1年半で辞め、神戸市の夜学校に勤め口があるからと、家と20アールばかりの農地を売り払って、一家を上げて神戸に引っ越してしまうのだ。淡路島から神戸は船便があるので近い。だが、親戚や地域の地縁血縁関係がセーフティネットだった時代、そうした援助が望めない見知らぬ土地へ30歳になったばかりの女性が、3人の子どもを引き連れて引っ越すのは無謀な試みに見えた。それに、先祖代々の家屋敷を売り払うことはご先祖様に申し訳のないことで、破産でもしないかぎり行うべきではないと考えるのが当時の人々であった。教員になる決心をしたこと以上に神戸に引っ越す決心は、反対と抵抗にあったことだろう。
しかし、彼女は決行する。彼女をそうした思い切った行動に駆り立てたのは、自らの活躍の場を広げたいという思いもあっただろうが、何よりも子どもたちを立派に育て上げたいという思いからだった。淡路島に居るよりも神戸の方が、より良い教育の機会に恵まれる。折しも、末っ子の茂樹が小学校へ入学する時、長女・登志得が小学5年生になり女学校受験を視野に入れ始める時にあたっていた。3人の姉弟は神戸市立入江尋常小学校(兵庫区西出町にあった。現在は廃校)に転校し、小学生生活を送ることになった。わさの職業人生も大きく展開し、勃興する女子教育と歩みを一つに、活躍の場が広がっていった。
子どもには良い教育を
神戸へ転居後、わさの日常はますます多忙になった。教師としての評価は高まり、担う責任は重くなっていった。彼女は、そうした評判にも安住せず、より良い教育を行うために模索と勉強を続けた。小学生の茂樹は、教師としての仕事と勉強で忙殺されている母に甘える暇もなく、神戸でも寂しい気持ちを押し殺して生活していた。
優れた教育者だった母は、子どもたちに対しても大変教育熱心であった。年長の姉たちは次々に高等女学校へ進学し、女学校卒業後、長女・登志得は美術学校へ(女子美術大学の前身、女子美術学校の創立者の一人が設立した学校)、次女・四津野は薬学校(現在の明治薬科大学の前身、東京女子薬学校)に進学した。
20世紀初頭、高等女学校進学者もまだ少なかった時代、母子家庭の娘がさらに上の学校へ進学するとは異例のことだった。しかも東京の学校に行ったのだから、相当の資金を必要とした。おそらく、淡路の家を売り払ったお金が教育資金に充てられたと思われ、わさが周囲の反対を押し切って、家屋敷を売却した真意がみえてくる。彼女は、夫を亡くしてから自ら経験した苦労を娘たちがしなくてもよいように、どんな不幸に遭ったとしても自立できる能力を付けさせたかったのだ。わさらしい嫁入り支度だった。多額の教育費を捻出するため、わさは切りつめた生活を続け、着るものも自身が考案した質素な三徳服(日本・中国・西洋の服装の良い点を取り入れたということから、この名がある)のみであった。
長男・茂樹に対しては、わさは、2人の娘以上に気を入れて取り組んだ。彼は、いずれ森家を背負って立つ立場であり、跡形なくなった森家を再興する者として育て上げる責任があると考えていた。しかし、さしものわさも、女親だけで男の子を育てる苦労も感じていたようだ。一体、わさが茂樹にどんなことを言っていたのか、後年、彼が旅先から母に書いた手紙の中に、「謙譲な心と何処までも奮闘し発展する精神力が盛んに躍動しております」(サンフランシスコからの手紙)という文言があり、恐らく奮闘して発展すること、常に謙譲であることを母は息子に言い聞かせていたのだろう。
茂樹は母の期待に応え、小学校卒業後は兵庫尋常高等小学校(兵庫区永沢町にあった。現在は兵庫大開小学校に統合)を経て名門の県立第一神戸中学校(現在は県立神戸高校)へ進学した。中学校でも成績優秀だったのだろう、茂樹の進学先として、わさは東京の第一高等学校(後の東京大学教養課程に相当する)を考え、自分も上京して東京で新しく学校を設立するプランも思い描いた。
しかし、結局わさは、1912年1月23日、地元神戸に現在の学校法人神戸学院の起源である森裁縫女学校を設立し、茂樹は、学校設立の2カ月後、岡山にある第六高等学校理科乙類に進学した。
第六高等学校は卒業生のほとんどが東京帝国大学か京都帝国大学へ進学する名門校である。一方、2人の姉は、茂樹が中学校在学中に、登志得は山西助一と、四津野は医師の園田修一と結婚して家を出ていった。茂樹の高等学校進学で、森家の4人は、それぞれ離ればなれに別々の人生を歩むようになった。
2.病理学者として
医学の道を志す
進学先に第六高等学校理科乙類を選んだ理由には、彼が少し病弱だったため、神戸に近い岡山なら、母を安心させられるということがあった。理科乙類は将来の職業として医者を目指したことでもあった。彼がなぜ医者になろうとしたかについては不明だ。病弱故に、医学のありがたさが身に染みていたのかもしれないし、母の次兄が淡路島で開業医をしており、休暇中、よく遊びに行ったというから、伯父の感化を受けたのかもしれない。また、彼は、女ばかりの家庭環境に育った末っ子の男の子にありがちな気弱で優しい性格だったことから、一時、母の知り合いの今岡信一良牧師に預けられていたことがある。その際、今岡から聖書を学んで、病気で苦しむ人を助けたいと考えたのかもしれない。
当時、旧制高校を卒業すると、ほぼ自動的に帝国大学へ進学した。しかし、東京と京都の両帝国大学、そして各帝大の医学部は志望者が多いので、成績も良くなくては入学できなかった。旧制高校と聞くと「弊衣破帽」のバンカラ・スタイルが連想されるが、授業は語学が重視され、勉強は厳しく、容赦なく落第させられた。茂樹は第六高等学校でも懸命に勉強したのだろう。
1915年、京都帝国大学医学部に進学し、キリスト教青年会が経営する学生寮・地塩寮に入って、もっぱら勉学にいそしんだ。そして、1919年11月に同大学を卒業し、大学院生として藤浪鑑教授(ふじなみあきら 1870~1934)の病理学教室に入って、医学研究者としての道を歩むことになった。
藤浪鑑は尾張藩の御典医の家柄に生まれ、ドイツ留学を経て京都帝国大学医科大学の初代病理学教室教授に就任した人である。研究者としては日本住血吸虫病の感染のメカニズムを明らかにして死亡者も多かったこの寄生虫病患者数を激減させたほか、家鶏の移植可能な肉腫を発見し、発ガン性ウイルス研究の先駆けとなった。茂樹が病理学教室に入室した頃は、すでに一連の研究が成し遂げられた後のことだが、藤浪研究室は病理学の第一線にあり、当時の日本では最先端の研究を行うところと位置づけられていた。茂樹は、生体染色の研究というテーマを与えられ、1921年7月に助手、翌年8月には助教授になり、1923年には研究テーマだった脂肪組織の生体染色で博士号を受けた。さらに翌年の1924年には第2回ウィルヒョウ記念賞(ドイツの高名な病理学者にちなんだ賞)を授与され、新進気鋭の病理学者としてスタートを切った。第六高等学校入学から12年の歳月が経過していた。
その間、わさが創立した森裁縫女学校は、最初の生徒8人だけのスタートから急成長を遂げ、生徒数は激増した。それは喜ぶべきことであったが、私塾のようだったわさの学校を、高等女学校という公的な存在にするのは難事業であった。それなりの規模を持つ校舎を建てねばならないし、教師も集めねばならない。そのためには多額の資金が必要であり、学校を経営する手腕も必要とされる。わさは優れた教育者であったが、経営、資金調達などは全くできない人だった。それゆえ学校創立2年目には、長女・登志得と夫の山西助一の力を借りざるを得なかった。2人は母をバックアップし、資金不足を補うため頼母子講の開設を考案して、懸命にわさを支えた。
茂樹も折々に母たちの相談に乗ってはいたが、彼は勉強に忙しく、母を助けることはなかった。わさ自身、茂樹には自分の道を切り開くことに全力を傾けよと奨励していたに違いない。しかし、茂樹には、自分が長男であり唯一の息子であることから、母が苦労している時に自分は助けられなかったという思いが悔いとして残った。
修練の時代
京都帝国大学病理学教室に入ってからの丸7年間、茂樹は師事する藤浪教授を補佐して働いた。1925年に病理学教室が全焼した時は、教授とともに再建のための作業に没頭し、教授の次女・藤浪和を花嫁に射止めて、茂樹は病理学会の巨星であった藤浪鑑の義理の息子となった。和は女学校時代から美しい娘だったので、多くの門下生たちが憧れていた。茂樹もその一人だったというわけだが、彼は毎晩のように藤浪家を訪れて来たので、藤浪夫妻が根負けし、娘を嫁がせたのだという。
2人は結婚し、1926年1月、33歳の茂樹は美しい妻を伴い熊本医科大学教授となって熊本に赴任した。和は女の子を産んで(登世子)、子どもの父親になった茂樹だったが、幼子と妻を残し、1927年1月、長年の念願だった欧米留学に出発した。
彼がヨーロッパの大学や有名研究所を回り、研究者に会って知見を広げていたさなかに登世子の疫痢による急死を伝える便りが届いた。一人留守宅を守っていた和は子どもの死に打ちのめされ、精神に異常を来すほどであったことから、心配した家族は彼女をシベリア鉄道に乗せて茂樹が滞在中のベルリンへ送り出した。ベルリンという異国に暮らすことで和は精神的な痛手から回復し、黒い上っ張りを羽織り、夫の手伝いをして瓶を洗ったり、勉強をしたりして過ごした。夫婦はベルリンからプラハに移り、再び身ごもった和は、今度は独り船で帰国し、次女・彩子を無事に出産した。
茂樹の海外留学は1年の予定であった。日本はまだ科学研究の世界では欧米諸国に随分後れを取っており、一流の学者になるには、まず留学して、外国の新しい知見を学んでくるのが常だった。彼はベルリンでロナ教授の下で学び、さらにプラハではビードル教授の下で研究した。ベルリンでもプラハでも、朝は走るようにして急いで大学へ向かい、夜は早くて8時頃まで、遅い時は12時過ぎまで大学に居残って勉強した。日本では一線級の病理学者である茂樹だったが、ヨーロッパでは「助手生活の延長」のような感じだったという。
彼が学んでいたのは、当時の先端的分野であった内分泌学である。内分泌学を選んだ事情について茂樹は山西姉夫婦あてに次のように書き送っている。
「今後私が医学界の一巨頭となるにはどうしても数年欧米にて修業することが必要欠くべからざる事と思ひます。
また修業する学科はなるべく今までに日本にないものを修め、一新分科を建てる意気込みが必要と思ひます。病理学を土台として治療学科中日本にあまりさかえていないものを修めたく思ひます(十年居っても二十年居っても人の後、後を追って行ってはとても学会の魁となることは一寸不可能と存じます)。そのように新しい学科を修めるのですから一層努力を要するのです。
只今ビードル教授の下で内分泌治療のことを研究しております。この内分泌のことは体質学や栄養学と関係深く大変面白い、必要な学科ですが日本ではまだ幼稚なものです。
私の修めたいと思っております事等は日本ではとてもだめです。修業のしようがありません。どうしてもこの際徹底的に研究したく思ひます。」
「医学界の一巨頭となる」、「只の先生で終わりたくない」(同じ書状の別の箇所にある文言)という野心的な思いに、内分泌学が以前から興味を持っていた体質学や栄養学との関連も深く、面白く思ったことから、ヨーロッパで引き続き学びを続けたいと訴えている。彼は懸命に学んでいたが、1年間では時間が足らな過ぎる。本稿で引用しているプラハからの手紙は、山西夫妻に留学期間の延長を願うため、より具体的には滞在費の援助を願って書かれたものである。援助をもらう目的で書いているので、幾分誇張されたところがあるかもしれないが、茂樹の心情がよく表れている。
姉夫婦、ひいては母からの援助がどのくらい出ていたのか不明だが、旅の最後の段階で600円(同じ頃の教師の初任給50円)のお金を無心する手紙が書かれているので、相当な金額が茂樹の欧米行きのために支出されたと思われる。妻・和のヨーロッパ行きにも山西からのお金が出ており、学校の校舎建設などに活用するために立てられていた「頼母子講」の資金も茂樹のために活用されたのである。
このような背景を思うと、茂樹は並外れた努力を払って困難を克服し、より高みに向かって登っていく人だったのだろう。
「私も来し方のいろいろを考へますと決して安楽ではなかったと思います。然しそれを考へれば考へる程どうしても帰れない。…今も昔も偉大な人は自ら求めて苦難の険路を攀じるのである。他に安易の方法があっても捨てて自ら艱難と闘ふております。私等の家庭も昔から安きに就き低きに流れたら楽にゆけたのです。帰れないような心に生まれておるために労苦が多いのです。然し過ぎれば労苦が悦楽ともおもはれない事はありません。どうしても横道にそれられない狭い険しい道しか歩けないのです。後戻りは出来ません。大道に出るまで」(前掲書状中より)
彼は、安きに就き低きに流れることをしない、楽ではない、厳しい人生を己に課していたというべきだろう。それは、母も姉も同様であった。茂樹は、ヨーロッパの有名な研究者たちには、経済的にも社会的にも苦労を重ねてきた人たちが多く、日本のように恵まれた階層の人々がほとんどを占めるというのではないことを知り、勇気づけられ次のように書いている。
「偉大な哲学でも科学でも宗教でもこんな人間的な多くの経綸を味わった霊から産まれる事が多いと思ひます。今度、西洋へ来まして多くの有名な学者に逢いましたが何れも困苦に産まれ(物質的にも精神的にも)苦難の生涯と苦闘した人のみであった事は非常に興味なる 鞭撻されるをおぼえました。」(前掲書状中より)
欧米留学で学んだこと
12カ国を視察して、1927年11月に帰国した茂樹は、藤浪門下の後輩で、茂樹の留守を預かるかたちで派遣されてきていた鈴江懐に、「自分はもう病理学をやらない」と表明したという。その言のとおり、1930年には設立間もない日本内分泌学会で講演し、1931年に『腫瘍と内分泌』と題した腫瘍に関する研究書を刊行、1932年には自ら「内分泌及び実験治療研究会」を結成してその代表者となり、雑誌『内分泌及び実験治療』を刊行した。1935年には、日本病理学会で「内分泌自律神経環境説」を提唱し、鈴江懐と共著で『実験腫瘍学』という本を著わすなど、内分泌と腫瘍、そして体質学の分野で活躍した。プラハから姉に送った手紙に書いた「医学界の一巨頭」への道を彼は着々と歩んでいた。
欧米の社会をつぶさに見て経験したことは、研究そのもの以外の方面でも、その後の茂樹を方向づけた。第一には、ヨーロッパの人々の身体が大きく体力があることを実感し、日本人の体質改善を行うべきだと痛感したことが、体質学研究推進の出発点となったことである。茂樹自身、小柄な人だったので、なおさらその思いを強くしたようだ。第二には、日本の社会を外からの目で大局的に見ることができるようになったこと、第三は、各国の大学や研究機関を訪れて、研究者たちと面談したことを通じ、欧米における学問研究の社会的在り方、大学の在り方について見聞したことである。欧米の大学は、「制度が先に出来てそれに人間を当てはめ、或いは詰め込んで制度にぴったり合った鋳型のように決まった学者や役人を作ってゐる日本とは余程感じの異なったところがある」(「実験治療学の新方向」、後掲『玉文集』所収)と彼は書いたが、まさにそれが実感だったのだろう。こうした思いは、根の部分で、晩年の神戸学院大学設立へとつながっていったと思われる。
1945年4月、空襲で全国各地が焼け野原になっているさなか、熊本医科大学関係者を中心にした森先生謝恩記念会から『体質・内分泌・その他-森茂樹先生玉文集』という、272ページがぎっしり活字で埋められた本が出された。同書には熊本医科大学在任中に書かれた専門分野の学術論文以外の新聞や雑誌に載せた論考や小文までが収録されており、内容は多岐にわたっている。国内外の医学者の業績や生涯についての文章からは、博覧強記な人であったことが知られ、また、研究動向や海外事情に関する記述から、たくさんの資料を読んで、海外の研究事情に通じていたことが分かる。
茂樹の趣味は読書と旅行であったというが、外国に視察に行った時の着眼点の確かさと社会に対する関心の高さも文中からうかがわれる。社会について論考する場合は、統計を多用し、常に事実に基づいて考えていた。統計などマクロの視点と、自分自身の目で見たミクロの視点を結合する知性の持ち主といおうか。社会に対する高い関心は、戦後、がん予防運動が始まるきっかけを作った点などにも表れている。
同書所収の文が書かれた時期は、厚生省(現:厚生労働省、以下同)が発足し(1938年)、日中戦争のさなかでもあったことから、強兵のため国民の健康増進が声高に言われた時期である。そうした時代背景のもと、茂樹も国家発展のためには日本国民の体位向上と体力増進が不可欠で、保健衛生制度の拡充が必要と訴えた。また、彼は科学振興策の重要性について多くの論考を書いているが、そうした彼の考えを体現したものが体質医学研究所だった。
体質医学研究所の設置
茂樹が熊本医科大学在職中に手掛けた仕事の中で、特筆すべきは1939年の体質医学研究所の開設である。体質医学研究所は、設立趣意書によると、体質形態学部、体質病理学部、体質衛生学部、臨床体質学部の4つの学部をもち、人類学、遺伝学、優生学、生物統計学、内分泌学、栄養学、衛生学、予防医学、運動医学など、既存の医学研究の範疇を超えており、気宇壮大な学際的研究を目指したところが茂樹らしかった。
研究所設置の経緯を同僚の鈴江懐が前掲『玉文集』の「編者序」に次のように書いている。
「昭和十年前後、即ち先生が体質医学研究所設立の秘策を練ってゐられた頃は、殆ど毎日のやうに一日の仕事を終わった後には、時を忘れて熱心に研究所問題を談じ、其深更に及べるに驚きつゝ相携へて教室を辞し去るのが常であった。此情熱と此意気。それが単科大学としては最初の付設機関たる体質医学研究所の官制を通過せしめる所以をなしたのである。実際今日こそ各所に各種の研究所が設けられそれぞれ其機能を発揮しつつ非常時日本の科学陣営の推進に寄与してゐるが其当時は誰しも斯かる機運は夢想だにしなかったのである。否、夢想どころではない。当時は寧ろ痴人の夢として反対の立場に在る人々が大部分ですらあった。ところが今日の如き研究所樹立の有様を眺め渡す時、先見の明といふか時世を洞察する達識といふか熟々迂愚余の如きは寧ろ何ものか神秘的なものに触るゝ心地すらせられるのである」
研究所の設立は、研究所を作ることで病理学講座のスタッフ増員をはかるという目的を含有していたのだが、熊本県から15万円の資金拠出を認めてもらうため、茂樹は県会で熱弁を振るい、議員たちを動かした。熊本城二の丸の建設用地の提供、そして建物の建設費は有力者たちの寄付で賄われ、政府も地元の熱意に動かされるかたちで設置を認可した。鈴江が書いているように「痴人の夢」だったものを、時代に先駆ける形で、しかも熊本という地方都市で実現させたのは、当時とすれば異例なことだった。『熊本大学三十年史』(熊本大学 1980年)には「森は、彼を知る人が一致して評するように、真のロマンチストであった」(999ページ)と書かれている。単なるロマンチストと真のロマンチストとの違いは、夢をどれだけ本気で実現させようとするかどうかの差だろう。茂樹の場合、研究所を作る前から「内分泌及び実験治療研究会」を自ら組織し、雑誌を刊行して実績を積み上げるなど、着実周到に準備をしていた。周到さの上に、鈴江の言う「先見の明といふか時世を洞察する達識」を彼は備えていた。
体質医学研究所は、戦後、熊本大学付属の研究所となり、現在は熊本大学発生医学研究所と名称を変えて、医学・生命科学の分野で先端的な国際水準の研究を行う研究機関となっている。
戦時下の京都帝国大学へ
1939年10月の体質医学研究所設立直後の1940年1月、茂樹は京都帝国大学医学部の招聘を受けて、医学部教授として病理学病理解剖学第二講座を担当することとなり、熊本を離れ京都に戻った。その後、1956年までの16年、46歳から63歳までを京都大学で過ごした。熊本医科大学の体質医学研究所設置に続いて、1940年には京都帝国大学内に財団法人体質研究会を結成し、『体質会雑誌』を刊行して、体質学の系統的組織的な研究の振興を図った。
京都帝国大学へ戻ったものの、茂樹は肋膜を患い、1年半ほど大学を休んだ。元々、頑健ではなかった彼だが、30歳代から40歳代に掛けての激務が祟ったのだろうか。そのためか、戦時下にあって森茂樹門下からは学生が育たなかった。
戦時下、満州および中国で、細菌兵器を開発し、捕虜や一般の中国人に人体実験を行った731部隊の創設者である石井四郎も京都帝国大学医学部の出身で、茂樹とは同年齢(卒業は石井が1年後)であった。その関係で京都帝国大学医学部病理学教室から731部隊に多くの人材が流出した。積極的に送り出した教授がいる一方で、森門下からは1人も出てなかったためだろう、茂樹が石井に飛行機に乗って部隊を案内された時、「学生を送ると約束するまでは、お前を降ろさない」と、ハルビン上空を何度も旋回されたという話が伝わっている(杉山武敏「京大病理学教室史における731部隊の背景」『15年戦争と日本の医学医療研究会会誌』第10巻第1号、2009年)。体調不良で学生指導ができず送り出しは無理だったという。彼は、まず日本人の体質を改善したいと考えており、また殺生も嫌いだった。「無産階級と富裕階級との子弟は教育を同ふし栄養を同ふする時はその素質に於いて大なる差はなかろう」(「我が国の人口問題の解決の鍵は何ぞ」前掲『玉文集』所収)と彼は書いたが、人の本来の素質に差がないと思う彼は、たとえ健康であったとしても、石井たちの研究には積極的に関与する気は起きなかっただろう。
茂樹が京都帝国大学にいた期間は、戦中から戦後にかけての苦しい時代であった。1945年9月には、杉山繁輝教授をはじめ多くの病理学研究者が被爆直後の広島に入り、原爆被害についての研究調査を行っていたが、枕崎台風で宿舎が山津波で倒潰し多くの犠牲者を出すなどの事件も起きた。大学も戦後改革の渦中にもまれ、物資も食糧も不足して研究環境が整わなかった時代であったが、彼は1948年に日本内分泌学会会長になり、1950年には日本体質学会を設立したほか、1952年には日本癌学会会長となり、研究の振興に尽くした。癌学会会長としては、がん撲滅のために一般の人々の関心を高める重要性を力説し、現在も活動中の日本対がん協会を結成する契機をつくった。
大学教授としての茂樹は、「人柄も穏やかでユーモアに満ち、講義の最初と最後に病理学が加わるが、中身の殆どは雑談で時間を忘れて学生を楽しませた。スーツを机上に置き(興奮するとスーツを脱ぐのが癖だった)、チョッキの胸ポケットに左手を差し込んで、学生に話しかけながらとつとつと講義」をしたという(『京都大学病理学教室百年史』同刊行会 2008年)。彼は1940年と1955年に『内分泌学』『新撰内分泌学』という本を著わし、両書はこの分野における必読書となった。学会における役職も、日本体質学会会長、日本癌学会会長などを歴任し、病理学、とくに内分泌・体質学関係分野の押しも押されもしない権威となった。
山口県立大学へ
1945年4月、後事を山西夫妻に任せて喜寿を迎えた母・わさは引退し、京都の茂樹方へ移って暮らすようになった。茂樹・和夫妻の彩子、弘子、康子の三人姉妹も次々に結婚して、1953年には茂樹に初孫が生まれた。厳格な教育者であったわさだが、京都ではすっかり優しいおばあちゃんとなり、曾孫を舐めるように可愛がり、日々をいつもにこにこと穏やかに暮らした。そして、1953年10月12日の朝、わさは突然亡くなった。お茶を点てようとしている時に大動脈破裂したことによる死で、この時代の85歳での死は、大往生であった。
病理学の権威としての名声を勝ち得た茂樹も63歳になり、1956年3月に京都大学を定年退官し、1957年4月から関西医科大学教授となった。京都から近い同大は定年後の転職先として格好のものだったと思われるが、茂樹はその年の秋に山口県立医科大学学長就任の要請に応じ、12月2日に着任した。同医科大は戦争末期に宇部市で設置された医学校で、国立大学移管を目指して総合計画を策定し、病院病棟建設や大学院設置など施設充実を図っているところであった。彼は独り京都の自宅を離れ、宇部市に単身赴任した。
茂樹が山口県立医科大学に在職した期間は8年である。その間、大学院や2年制の衛生技師学校の設置、基礎学部研究棟や500床の中央病棟、外来診療棟など大規模病院の建設が、国立移管のために実施された。病院には当時、最新鋭のがん放射線治療器具であったベータトロンや人工腎臓などの医療設備も導入されて高レベルの治療ができるようにしたほか、テレビ付の個室も備えて、高いクオリティの看護もできるようにした。また1960年には、日本体質学会の総会が開催された。山口県立医科大学は1963年12月に、1964年度から4カ年計画で国立移管が実施されることが決定し、山口大学医学部となった。そして茂樹は、1965年3月、4カ年計画の第1年度を終えたところで退任した。
相次ぐ大事業の実施には、山口県や地元である宇部市、さらに文部省(現:文部科学省、以下同)や厚生省との折衝が必要とされ、学長として彼が貢献するところも大であったと思われる。この業績に対し、大学は感謝の念を表して、茂樹の胸像が医学部構内に建てられた。
3.神戸学院大学の創立
不二大学
1965年、山口大学学長を退任した茂樹は72歳になっていた。3年前には体調を崩して入院もしており(初期のがんであった)、肉体的には老いを感じていたはずだが、日本人男性の平均寿命が68歳だった時に、それよりも4歳も高齢となっていたにもかかわらず、彼は生涯で一番の難事業に取りかかった。
茂樹が、いつ頃から大学を創ると言い出したのかは不明だが、1964年の秋、学会出席を兼ねて姉・山西登志得を連れて欧米旅行をした時、当時、ロックフェラー研究所に留学中の西塚泰美(医学博士。のち神戸大学学長)に大学設置構想を披露し、開設の暁には教員として来てほしいと要請したというので、この頃には、内部での話ができてきていたものと思われる。また、茂樹の次女・溝口彩子は、父が母を横に座らせて「一日中…どこへ設立地を定めるべきか途方もない程遠大な計画をいうのです。資金の調達から校舎の建設の交渉、学生募集から校章のデザインに至るまで、まさに狂人の沙汰としか思われませんでした」(『創立十年の小史』 1978年)と家での様子を書いている。
恐らく、茂樹の頭の中の世界では、かなり早い時期から大学を作りたいという考えが存在していたのではないだろうか。そこには、女性の身で、しかも金銭の裏付けなく徒手空拳で森裁縫女学校を設置して高等女学校にまで育て上げた母・わさの生き方への憧憬と、息子として母の後継者とならねばという思いがあったと思われる。その思いには、母が苦労している時に助けになれなかったことを悔いる気持ちも加わって、彼は「親孝行がしたいのだ」と女婿で前学校法人神戸学院理事長である溝口史郎(学校法人神戸学院名誉理事。神戸大学名誉教授)に語ったという。
1964年の旅行の際も、外国の大学や研究所を熱心に回っており、設置計画の具体化のための視察旅行だったのだろう。また、前述した30歳代での留学の時、日本の大学や研究機関の在り方につき考えることがあったことも、その背景になっていよう。彼は、やはりわさの息子らしく、学校、教育について、高い関心を持っていたと思われる。
折しも、1960年代後半はベビーブーム世代が大学に進学する時であり、経済の高度成長と相まって大学進学者が急増し、大学を設置するには格好の時期であったことも彼を大学設置に向けて駆り立てたに違いない。関西医科大学教授をやめて山口県立医科大学学長になったのも、大学経営の実務を経験するためで、熊本で体質医学研究所を造った時と同じく、彼なりに周到に準備していたといえるのかもしれない。
だが、今回の事業は、体質医学研究所や山口県立医科大学と違って、自分で資金を調達しなければならない点で一層困難であった。森裁縫女学校の頃から学校経営に携わり、経営手腕を振るってきた義兄・山西助一は大反対で、「気が狂ったのでは」と家族に語ったという。資金を握っている山西の強い反対にもかかわらず、大学を設置することに決めた経緯は分からないが、1965年5月、現在の有瀬キャンパスの地である漆山で土地買収交渉が開始され、さらに1カ月後の6月には用地買収が決まって、6月9日、学校法人森学園(現在の学校法人神戸学院)の理事会は大学を設置することを決定した。
漆山からは森家の故郷、淡路島が見えた。緑が多く傾斜地である点がハーバード大学のようだと茂樹は喜んだという。大学は単科大学としてではなく、最初から総合大学として構想され、彼はその名を「不二大学」-富士山の意と他に二つとないという意-と名付けようとした。この名称については賛同を得られず、川崎操(のち理事、元教養部教授)の発案で神戸学院大学と命名されたが、不二大学の名称には、茂樹が一流の大学へと成長させるのだとの気概をもって、大学設立の仕事に取り組んでいたことが表れている。
強行軍の大学設立
経営的にはベビーブーム世代が受験する最初の年、1966年度から学生を受け入れるのに越したことはない。文部省の審査を受けるためには、1965年9月末までに申請書類を整える必要がある。具体的には、教員の招聘、校舎の設計と建設、図書や機器の発注・購入を短期間で行わねばならない。あまりに時間がないので1年見送ろうという意見もあったが、茂樹は強行突破を図った。まず、設立1年目の京都産業大学を見学に行き、同大学の荒木俊馬学長から多くの教示を得た。本学の最初の建物である栄養学部の建物(1号館。現存していない)は、京都産業大学の学舎と同じかたちだったが、それは同大学をモデルにしたからだった。また、戦前の京都帝国大学在職中から懇意にしていた立命館大学学長の末川博(民法学者。六法全書の作成者、日本学士院会員)からもアドバイスを受け、経理を任せられる人を紹介してもらった。
大学用地は農地だったため、農地転用の手続きをしないと建物の建設ができない。のち、本学理事長に就任する中野文門(神戸市議会議員、兵庫県議会議員を歴任。戦前から義務教育の無償化論者。神戸市の戦災復興に尽力。福海寺住職)は、当時、参議院議員で文部政務次官に就任しており、農地転用について働きかけてくれるなど、側面から協力を惜しまなかった。7月3日に購入した用地の正式な農地転換許可が出たのが10月4日で、これは異例のスピードだった。
最初に設置した学部は栄養学部で、神戸森女子短期大学家政科で栄養士の資格を取るコースがあり、短期大学からの協力を得られることにメリットがあった。茂樹の頭の中には、さらに薬学部を設置しようという考えがあったが(医学部をつくるには付属病院を併設するなど巨額の資金を必要とするため最初から考慮しなかったという)、理系の学部は実験器具などをそろえねばならず、お金がかかることから、まず文系学部を設置して、大学経営を安定させようとした。文系学部としては、既設大学が少ないことから経営学部を計画し、大学設置申請書には栄養学部と経営学部の2学部を設置すると書かれていた。
教授陣は高名な学者が揃っていた
短期間に各専門の教員をそろえるのも大変なことで、茂樹は各地を飛び回って研究室を回り、これはと思う人物を招聘して歩いた。文部省に提出した申請書には、彼の旧知の友人たちが名前を連ねたが、名前を書いてくれた人たちの中で本当に来てくれた人も居り、また、来てくれなかった人も居たという。
招聘活動は学部増設と学生数の増加に応じる必要から大学設置後も継続された。1968年1月の早朝に茂樹の突然の訪問を受け、栄養学部教員就任を承諾するよう書類に署名捺印を求められた前出の西塚泰美は、署名捺印した書類を文部省に提出すべく、その日の晩の夜行列車で東京へ発つ茂樹を見た。もうすぐ74歳になる人としては、大変なエネルギーで動き回っていた。彼の招聘活動は大体がこのようなかたちだったようで、彼に招聘された教員たちが、茂樹の思い出話として同じような経験を『創立十年の小史』に書いている。
のち、本学学長になる濱堯夫も茂樹からのたっての要請で教員就任の求めに応じた人だが、濱によると、茂樹は人相学に通じており、人相から「あの人は駄目」と言うことがあったという。教員候補者選定には、人相学も活用していたのかもしれない。
創設期の神戸学院大学の場合、教員の数をそろえれば事足れりとする新設大学にありがちの弊には陥らなかった。むしろその逆で、茂樹の友人たちには多くの優秀な研究者がおり、その人たちが京都大学などを定年退官した後、茂樹との約束を果たして神戸学院大学へ来てくれた。法学部教授には磯村哲(京都大学名誉教授。法学者)、のち文化勲章を受章した大隅健一郎(京都大学名誉教授。最高裁判所判事)、法学部設置の際に手伝った第六高等学校の後輩・西原寛一(商法学者。関西学院大学教授)、経済学部には坂本弥三郎(神戸大学名誉教授。経済学史の専門家。蔵書が「坂本弥三郎文庫」として本学に寄贈されている)、栄養学部では井上硬(京都大学名誉教授。医学部第一内科教授、同医学部付属病院院長)が学部長に就任した。井上硬は、茂樹と第六高等学校の同級生で、一緒に京都帝国大学医学部に進学し、同じ頃に京大教授になった人で、2人は親友であった。井上は栄養学部の基礎を固めるために働いたが、志半ばで急逝した。
助手も居らず、給料も安く、明石から1時間に1~2本しかないバス(古い車両が使われていた上、舗装していない悪路だったため、時には故障して途中で動かなくなったりした)に乗らねばならない当時の本学に、学士院会員でもあるような高名な教授たちが教えに来ていた。彼らの講義を聴くため、他大学の学生がこっそり出席していたという。
茂樹に協力したのは教員だけでない。中野文門や末川博、荒木俊馬など外部の人たちからも協力を得たことは前述したとおりだ。さらに、短期決戦で大学設置をやり遂げねばならなかったため、短期大学職員が日常業務を終了した後に、毎晩、徹夜のようにして申請書類一式の作成に励んだ。茂樹の熱意と真剣さが人々を動かしていた。
神戸学院大学の開設
1965年9月29日、翌年4月からの開学にぎりぎりの日限で神戸学院大学設立のための必要書類が文部省に提出され、10月4日に農地転換正式認可を受けるや、翌5日には地鎮祭をして、ただちに校舎建設にかかった。学舎建設には設計図が必要だが、それを作る暇もなく、京都産業大学の学舎の設計図面をもらって栄養学部の学舎の建設が始まった。学舎の位置も、用地全体が傾斜地であったが整地する暇がなかったため、唯一、平坦で学舎建設が可能だった場所が選択の余地なく選ばれた。11月17日には文部省からの視察が入り、申請書提出後、2カ月間、不足した文書の提出や訂正を続け、大学設置の正式認可が下りたのが12月18日であった。経営学部設置は間に合わなかったので、栄養学部だけの開設となった。
認可を受けるや、茂樹と大学設置計画の段階から手伝った梶本五郎(元栄養学部教授)は新入生募集のため、入試要項の発表、大学を知ってもらうための広報活動に動き、近畿、中国、四国、九州地方を回って、各県の教育委員会と高校、さらに高校教師宅まで訪問してPRした。彼らが行く先々では各地に居住している茂樹の教え子たちが盛大な歓迎会を開いてくれたという。本学の栄養学部は医学・農学・栄養学・薬学とすべての分野のスタッフをそろえていたのが特色であった。
推薦入試が1966年1月25日に会下山の短大で実施され、一般入試が2月14日に行われ、それぞれ75名、97名の合計172名の志願者があった。1966年4月21日、入学式が挙行され、新入生121名の前で、茂樹は長い式辞を述べた。式辞の抜粋が「神戸学院大学新聞第一号」(1967年1月)に掲載されており、彼の大学に託した思いが述べられている。要約すると次の通りである。
人間形成の二本柱は知性と徳性であるが、大学の使命は、その上に、より高度な文化の建設と人間幸福の増進のため専門家を育成することにある。各個人にあった職業を選択し、各人の使命を発揮させることは、ひいては国民の全作業の質を高め、国民の幸福、文化の振興に役立ち、さらには世界文化の発展に優れた役割を果たすことができる。
悲惨な戦争により我が国は灰燼に帰した。しかし、戦後20年で世界の一流国家群に躍進した根拠は、日本人に優れた素質があるためか、あるいは国内的国際的環境要因に恵まれた故なのか私はその実体をつかみたいと思っている。日本は建国以来、一度も世界文化を代表することがなかった。敗戦後の発展ぶりを見ると、これから日本が、これまで受けた文化的恩恵を世界の民族にお返しすることができるかもしれないという希望を抱かせる。
そのためには、教育学問の振興、大学の強化、研究所の充実が基本だ。しかし、まだ日本民族には脆弱性が少なくないので、多難な国際情勢の中、文化の昂揚の主体性を堅持するには、かなりの覚悟が要る。大学についても、今後、社会的競争によって現在のような乱立状態が集約されていくのではないかと思う。
「本学は誕生したばかりだが、この社会的競争を意識し、意義ある大学に成長するようあらゆる努力を払わねばならない。…世界の大学と民族興亡の歴史が教えているところは、徳、真理、愛の人間性を育てることと真理愛好の精神を昂揚することが、文化発展の根源であるということである。本学の前途には幾多の波乱と曲折が横たわることであろう。しかし、それこそ、我々の不撓の勇気と不屈の精神を培うものであると信じて、建学の実践に邁進しようではないか」(結びの「」部分は原文のママ)
神戸学院大学の建学の精神は「真理愛好・個性尊重」である。個々人が持てる能力を開発して社会に役立つ人になることが、日本、そして世界の人々への貢献につながるというのが茂樹の考えで、一人一人がその人の性質に従って素質を伸ばすことを第一とした。
わさのモットーであった「自治勤労」と相通じているといえようか。また、最後の結びの言葉は、学生に対してというよりも、教職員に向けて発せられた言葉のように読めるが、大学の在り方や研究の在り方についても良く考えられている。総合大学か特色ある単科大学でないと生き残れないと推測し、勇気を持って大学を創っていこうと呼び掛けている点などは、現在にも通じるところで、彼の見通しの確かさが出ているといえよう。
創設期の神戸学院大学
第1回目の入学式を挙行したものの、開学当初の大学は周囲が畑に囲まれて、ポツンと栄養学部の1号館が建っているだけの状態だった。グラウンド整備も未完、周辺に食堂がないので、建設時に使った飯場の建物が食堂に充てられた。実験用の設備も不足しており、短期大学から借りてくることもあった。翌1967年には法学部と経済学部が設置されたので、学生数も500名増えて全学で700名ほどになったが、まだ大学の知名度も低く、学生集めに腐心し、教職員が一緒になって大学を知ってもらうために全国を回った。また学費も、文部省から来た査察委員が、これで経営が成り立つのかと言うほど安かった。それほどに設備は不備であり、開学間もないころ、数人の男子学生が食堂や体育館を建ててほしい、運動場のない大学なんて大学ではないと団交を申し入れたこともあった(前田正雄「初代学長森茂樹先生を偲ぶ」『創立十年の小史』)。
そして入学者は定員に満たなかった。受験の願書が送られてくるシーズンは、茂樹もたびたび事務所に顔を出し、願書受付数をチェックした。思うように数が伸びず、寂しそうだったという。大学にはお金がなく、茂樹自身にもお金がなかった。その一方で、用地買収費や学舎建設費など投資目的の資金が要った。運営についてもすべてが緊縮だった。出張の際、グリーン車を使うことはなく、宿泊するのも安めのビジネスホテルで、同行者と一緒に同室で茂樹も泊まった。
問題が山積していたが、そうした中でも茂樹は「後世に残る大学にする」といって張り切って各地を飛び回っており、それが「場違いなほど印象的」だったと樫原朗(元経済学部教授。神戸学院大学名誉教授)は次のように書いている。
「(課題山積の)現実と、なんと遠大な理想。そしてその理想にまい進しようとする学長の姿は、何かほら吹き貴公子と浮世離れした哲学者をミックスしたものをほうふつさせるものがありました。しかし、その眼は本当に遠い将来をみつめランランと輝いておりました。しかも先生の学問と大学の将来に対する情熱とその話は、何人をも惹きつけずにはおかない不思議な、そしてあやしいまでの魅力をもっていました・・・」
森茂樹の人となり
「あやしいまでの魅力」と樫原が書く、茂樹とはどのような人だったのだろうか。前掲『創立十年の小史』には茂樹と井上硬の追悼文が載せられており、茂樹を知る人たちが“彼の”人となり、日常の様子などを書き綴っている。見た目は小柄な人で、明治人らしい雰囲気を持ち、白くなった口ひげを生やし、髪はオールバック、まなざしは温和で声は高め、早口で話したという。
身内の中での彼はどのようであったか、娘・溝口彩子は、彼があらゆる殺生を嫌っており、子どもが虫にいたずらをすると大変怒ったこと、蚊を叩くこともしなかったこと、屋根裏を走り回るネズミを退治せず、野良犬が床下で産んだ子犬の引き取り手がなくても捨て犬をしないので、貰い手がない不細工な犬たちが庭を走り回っていたなどのエピソードを紹介している。また、科学的探求心がそのまま無邪気に表れた感じで、彼は大柄で立派な体格の人を見ると、見知らぬ人であっても、羨ましそうに見上げて、何尺何寸あるか聞くのが常で、その対象は、彩子の学友たちにも及んで、愛娘を困らせていたという。
彼は栄養学にも造詣の深い人だったが、食べることについては無頓着で、食材を栄養素の分量に分解換算して、必要な分量が食べられていれば良いと考え、味付けには構わず、肉と卵さえ食べていれば元気だという認識だった。肉はしぐれ煮、卵はスクランブルエッグが定番メニューだった。着るものも体温調節ができればそれで良いという考えで、一向に構わず、質素であった。また、感情的には激しい人だったという。
身辺に居た人たちは、彼のことを、ロマンチスト、純真な人、浮き世離れした人、夢見る人、大風呂敷などと評した。銀行に借金のお願いに行く時も、支店長や担当の銀行員を相手に、教育はどうあるべきか、医学はどうあるべきかなどを滔々と話した。また、気持ちの優しい人でもあり、栄養学部の調理実習用の高価なアメリカ製スライサーが盗まれた時、資金難で苦しんでいたはずの彼は怒ることなく「盗らないような人間を作っていかねばならない」と言ったといい、また、ストライキのために夜遅くまでビラづくりに励んでいる学生たちのところへ来て「寒いときだし遅くまで起きていると風邪を引くよ」と声を掛けたという。
大学開学後、京都に自宅がある茂樹は、通勤が大変なので、大学に泊まって過ごしていた。娘夫婦がベッドを購入して贈り、それを学長室の隣室に置いて寝泊まりした。周りは農地で買い物する場所もないので、買い物籠を下げてバスで明石へ出かけ、魚や野菜などを買って帰ってきていた。大学の廊下をうろうろしている寝間着姿のおじいさんが、学長だと知って驚く学生も居た。そうした彼を若い秘書や用務員夫妻が面倒を見ていた。
資金難
用務員が「明け方、先生がうなされておられるようなので『先生!』と声をおかけしたら、『金がね』と言われた」という話しをされたと岡本歌子(元栄養学部教授。神戸学院大学名誉教授)は書いている(前掲『創立十年小史』)。電気代を節約したくて、誰も居ない構内を消して回っていたこともあるという。学長として彼は相当の借金を背負っていた。お金のやりくりのために、妻の反対と懇願を押し切って自宅も抵当に入れて、農協からお金を借りた。借金取りから逃れるため、娘の家へ避難している時もあった。
神戸学院大学にはお金がなかったが、学校法人神戸森学園には当時のお金で5~6億円が蓄積されていた。それは理事長である茂樹の義兄・山西助一の経営手腕によってもたらされたものだが、法人が所有する資金は山西の承諾無しに使うことはできなかった。銀行は法人にお金があるので大学にもお金を貸したが、財布の紐が山西に握られていることから、大学側(茂樹)は苦しむことになった。山西を説得しに行っても、そろばんをはじいて、赤字が続く大学に資金を出すことを認めない。議論は平行線をたどり、結論が出ぬまま、挙げ句の果てに給与遅配が発生したこともあった。
茂樹は構想をもっているがお金はなく、山西は、「夢見る男」である義弟のやることを危ぶんでいた。茂樹は大学と学校法人とを切り離すことや、改印して学校法人のお金を使うことなども考えたが、決断できなかったという。留学の時にお金を出してもらったことや母親の事業を助けてくれたことなどの恩義があったからか。「夢が多く…経理には精通していない」茂樹に対し、私学経営のプロであった山西がお金を任すことはできないと判断したのは、致し方のないところだった。
資金難は職員組合との交渉内容を険しくし、学長である茂樹は大変疲れて、団交途中にソファで休むこともあったという。それでも、研究者として生きてきた茂樹だったので、研究費はできるだけ捻出しようとしたという。
最晩年には薬学部を開設するに当たって、新たに用地を買い足して建物を建てるための資金手当ができないことで彼は苦しんだ。それでも、1971年度から薬学部を発足させたいとの思いで申請書を出したが、結局、用地買収の目処が立たず、文部省から実地視察に来る段になって、ようやく諦めて申請を取り下げたのだった。
夢半ばで
学内に泊まり込んで学長業務に励んでいた時期は、不自由な生活を余儀なくされ、また、資金繰りで苦しむ日々でもあったが、非常勤を含む教職員と親しく語り合う機会に恵まれて、茂樹は楽しそうだったという。しかし、そうした生活は70歳代後半となった彼にとって肉体的に負担になって行き、目には疲労の色が漂うようになった。
そして、1971年1月15日に山陰地方の高校へ講演に行く途中、風邪で発熱した。当時、学生集めのため大学の宣伝を兼ねて地方講演なども頼まれれば出かけていたというが、それは喜寿を過ぎた彼にはハードすぎる仕事だったのだろう。帰ってくるなり寝込んでしまい、そのまま神戸の川崎病院に入院した。レントゲン写真を撮ると肺が真っ白になっており、かつて罹患した肋膜からきた結核菌が、疲労困憊したことで血流に乗って全身に回り、爆発的に増えていた(粟粒結核)。どこを圧診しても痛がった。川崎病院から京都大学付属病院へ転院させたが、容態は悪化する一方で悪液質となり、身体はがりがりに痩せ、酸素テントの中で過ごした。大学関係者が見舞いに来ると、「薬学部を薬学部を」と言ったという。数カ月前に申請を取り下げたことが心残りだったのだろう。学長代理になった尾上正男(元法学部キ教授。神戸学院大学名誉教授)の手を握り「薬学部を頼む」と言い、口がきけなくなってくると、ただ「たのむ、たのむ」と言っていたという。
1971年4月21日に茂樹は亡くなった。行年78歳であった。夢の実現に総力を傾けた老ロマンチストは、現実との苦闘で疲れ、亡くなった。薬学部開設にかけた思いは尾上次期学長により実現し、彼の死の翌年、1972年度に新設された。薬学部が開設された頃から大学は経営的にも安定し知名度も上がっていくようになった。茂樹が言い続けた「後世に残る大学」となることを目指し、彼の周りに居た教員、職員が力を合わせた結果だった。
「どうしても横道にそれられない狭い険しい道より歩けないのです。後戻りは出来ません。大道に出るまで。」と34歳の時、彼は書いた。そして、険しい道は労苦も多いが「過ぎれば労苦が悦楽ともおもはれない事はありません」とも。78年の生涯は、大道に出るまで歩き続ける人生だったのだろう。その労苦を悦楽とも感じられる日々を彼は多分、有瀬の学長室で味わっていたのではあるまいか。
前出の溝口史郎前理事長は義父の死から40年以上が過ぎた今、「当時、私が思っていたよりも、森茂樹という人は立派な男だったのだと思う。これだけ多くの人たちが協力してくれたのだから」と語った。森茂樹という夢見る男が去った後、彼の周りに集まった人たちの輪が、彼一人では到底できなかったであろうことをやり遂げさせた。彼の夢が単なる夢に終わらなかったのは、彼が夢を現実へ変えるために、まず誰よりも献身的に総力を挙げて努力する人だったからだろう。その熱意と真摯さが、彼と同じ夢を見る人を増やしたのだ。