地域研究センターが講演会「明石 朝霧 人麻呂のまち」を明石市立図書館で開催しました
2023/11/22
地域研究センターは11月19日、人文学部の中村健史准教授を講師に「明石 朝霧 人麻呂のまち」をテーマに明石市立図書館本館(あかし市民図書館)で第2回「2023大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェ」を開催しました。同図書館との連携による講演会で、同館の「地域学講座」の一環と位置づけられ、多数の市民らの参加がありました。
今年は明石ゆかりの万葉歌人・柿本人麻呂の1300年忌にあたります。国文学を専門とする中村准教授は、地域研究センターで「明石の文学」をテーマに研究を重ねてきました。同市の柿本神社に建立された「亀の碑」の注釈の作成なども行っています。
中村准教授は、柿本人麻呂に関する確実な史料は『万葉集』がある程度で、現在に伝わる資料や伝承の多くは平安中期以降、人麻呂の神格化とともに生みだされたものに過ぎず、人麻呂の生涯はほとんど分からないことを説明し、『万葉集』巻三に収められた人麻呂の和歌を紹介。「灯火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず」(明石海峡に沈もうとする夕日よ。海に乗り出して、これからもっと遠のいてゆくわが故郷のあたりはもう薄暗くて見えない)が明石海峡を近畿圏最西の地ととらえ、そこから離れてゆく心細さや望郷の念をうたうのに対し、「天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」(遠く離れた田舎から、長い道のりを経て故郷を恋しく思って旅してくると、明石海峡から奈良の島影が見える)は西海からはるかな旅路を経てようやく近畿圏に戻ってきた安らぎをうたっていることを指摘し、飛鳥時代の人々にとって明石が近畿圏と外周部の「境界」だったと述べました。
次いで『古今和歌集』に収められた伝人麻呂歌「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ」(明石の浦の朝霧のなかに、ほんのりと見えては島陰に隠れてゆく舟。あの舟はどこへ行くのだろうかと想像をめぐらす)が『万葉集』収録歌よりも有名になったいきさつを解説し、この歌が人麻呂と明石を結びつける鍵になったと強調しました。明石は人麻呂の生誕地でも死没地でもありませんが、人麻呂の代表作と信じられた「ほのぼのと」の歌が詠まれた場所である(と考えられていた)ために、「人麻呂のまち」となります。南北朝時代に作られた歴史物語『増鏡』には、既に明石に「人麻呂の塚」があったことが記されています。戦国時代の歌集『再昌草』(三条西実隆)には明石の浜辺に人麻呂が腰を掛けたという松があったことが記録されています。
「人麻呂の塚」や「腰掛けの松」は人麻呂が亡くなってから数百年以上経ってから生まれた伝承であり、信憑性に乏しいものの、「どうにかして人麻呂が明石に来た確実な証拠がほしい」という明石の人々の切実な願いがあったのではないかと推測されるといいます。
柿本神社の「亀の碑」(1664年)は明石藩主・松平信之が幕府の儒官であった林鵞峰に文章を依頼したもので、伝承や不確かな資料を排し、確実な史料(『万葉集』)に依拠して人麻呂の伝記をつづった点で画期的だとされます。末尾には「人麻呂一たび去りて千歳、得て之を見ず。明石浦を見ることを得ば斯れ可なり」(人麻呂は死んでから千年以上経っており、直接会うことはできない。人々は明石の浦を見ることで満足するのである)という文章があり、「生誕地であろうが、死没地であろうが、どこに行こうと人麻呂に直接会うことはできない。それならば明石に来て、人麻呂が見た風景を見、人麻呂の思いを追体験するのがよいのではないか」という鵞峰の思考が見てとれるといいます。中村准教授は「この歌は生誕地でも、死没地でもなく、単なる『ゆかりの地』に過ぎない明石に対して、鵞峰が贈ったエールです」と締めくくり、会場からは大きな拍手が起こりました。
地域研究センターのサイトの記事はこちら (中村准教授による「亀の碑」の全文書きくだし無料ダウンロードも可能です)