2009年11月
トイレから、人間の文化が見えてくる
“トイレ”が語りかける人間の歴史と文化。
有瀬キャンパスの中央にある3号館。水本教授の研究室は3階の廊下の突き当たりにあり、ドアの傍らにキャビネットが置いてある。のぞき込むと、風変わりな物が所狭しと陳列されている。何体もの小便小僧の像、うんちの置物、たくさんのトイレットペーパー、便器がぶら下がったキーホルダー、骨董品のような陶器・・・。
「これはね、中国の古い時代の尿瓶です」。教授は、使った形跡のある尿瓶を取り出してそう教えてくれた。一瞬、手が引いた。キャビネットに展示されているのは、教授がほぼ20年間にわたって収集してきたトイレに関連する珍品、奇品ばかりだ。「教え子たちが旅先の土産にもってきてくれたものも結構あります」。トイレの関連本はゆうに2千冊を超え、自宅の書斎に収まらない書籍や資料の類いが研究室を占領している。
日本トイレ協会会員の肩書きもある教授は“トイレ博士”の異名をもつ。そんな教授が披露するトイレにまつわる“うんちく”の数々は、ユニークで興味深く、おもしろい。新聞でも紹介され、講義は学生にも人気がある。教授の言葉をそのまま借用すると、「便器のなかに首を突っ込んだら、世の中がよく見える。調べるほどにトイレの研究は奥が深い」ものらしい。
もとより、人類の誕生とともに排泄の歴史がはじまり、それとおなじだけトイレの歴史も古い。排泄と同様にトイレは人の営みと不可分で、人間の歴史と文化を考察する上でトイレを抜きには語れない。“日ごと誰もがお世話になる場所”であるにもかかわらず、今日もなお日陰の存在である。そんなトイレに教授はある種愛情にも似た思いで、「身近にある大切なトイレにもっと目を向けてほしい」と訴えかける。
日本古代法制史の専門家が、学生におくる“トイレ学”
いまやすっかり“トイレ博士”なのだが、教授本来の専門は日本古代史。「日本古代の法制と古典籍の研究」をテーマに、とくに奈良や平安時代の法律が貴族社会のなかでどのように運用されてきたのかなどの研究は、学会でも評価は高い。
『律令註釈書の系統的研究』(塙書房/1991)、『令集解総索引』(高科書店/1992)、『SHUUGE』・令集解全文データベース(京都大学大型計算機センター/1995)、『影印本 紅葉山文庫本令義解』(東京堂出版/2001)、『令集解』(『国史大系書目解題下巻』所収、吉川弘文館/2002)など、一般には馴染みの薄い研究だが、古代の法制と運用を研究する上で、重要な文献である。
こうした古代法制の研究に取り組む教授は、神戸学院大学法学部出身。その後、他大学の2つの大学院に学び、「文学博士」の学位を取得。自らを「何事にも凝り性」という教授には、膨大な量の古典籍を一つ一つ丹念に子細に調べ上げるという古代史研究が合っていた。そんな教授がいつどのようにして「トイレ」と出会ったのか。
話は20年ほど前にさかのぼる。教授は、学生に「どうしたら授業を楽しんでもらえるだろうか」と悩み、講義の時々に身近な雑学を取り入れてきた。「文化を教えるのに高校の教科書にあるような古典文学や絵画を素材に用いても、それ自体が学生にとっては極めて抽象的です。当然、授業も身に入らない。試行錯誤の上、あるとき、誰にも最も身近なトイレの話をすると、学生たちががぜん興味を示したのです」。以来、教授自らもトイレの研究に邁進し、片っ端から書籍や資料を収集し、本格的に講義するようになっていった。
「トイレの講義はあくまで手段です」と教授は話す。素朴な疑問からスタートして、学ぶことや知ることの楽しさ、そのために調査や研究の手法を自然に身につけていく。「そのための入り口がトイレの講義なのです」。
被災地の経験を生かして防災トイレ対策の研究も
トイレや便所。毎日、誰もが欠かさず世話になりながら、実は「排泄する」大切な場所にもかかわらず本来の名称が与えられていない。トイレはフランス語のトワレットが語源で「化粧」という意味だ。排泄の意味はない。日本でいう便所も機能を表現するなら、「糞尿所」などとするのが正しい。昔は「はばかり」「かわや」とも呼ばれたように、人目に「はばかる」日陰の存在として扱われてきた。それは、人間が排泄に羞恥心を持っていることで、その排泄する場所をぼやかすといった「隠す文化」が存在していることに起因する。では、なぜ排泄に羞恥心を持つようになったのかなど、トイレにまつわる疑問はつきない。
これらの疑問を、一つ一つ調べて解明してゆく。そうすると人とトイレに関わる様々な文化が見えてくるというのだ。トイレを視点に据えて、考古学や歴史学、民族学、心理学、建築学や教育学など、多種多様な領域で研究のアプローチができる。教え子のなかには、駅弁ならぬ「駅便探検隊」と称して電車の駅の女子便所を調べた学生もいる。また災害時用の「防災トイレ」を博士論文にまとめようとしている大学院生もいる。
阪神・淡路大震災ではトイレ問題が浮き彫りになった。その体験をもとに、教授はトイレの視点から災害時の避難所でのトイレ対策も研究している。新潟中越地震では被災地を訪れてトイレ問題を調査した。また歴史家として「阪神・淡路大震災避難所の記録や資料を後世に残す」ことを自らの務めとして取り組んでいる。被災地の神戸市長田区の「人・街・ながた震災資料室」や長田区役所とともに、水本ゼミでは学生が中心となって「震災の体験を風化させず後世に継承する」活動を続けている。
「一人一人の小さな力が地域社会を元気にする力になる」と信じて疑わない教授の活動は、商店街の活性化など、いまやまちづくりの分野にまでおよぶ。最後に教授は「身近にあるがゆえに大切さに気付かないことがあります。例えばトイレの大切さを見直してみてください。きっと、これまで見えなかった新しい発見をしますよ」と語ると、「これから学生たちとコンパなんです」と足早に会場に向かった。教授が手に下げた紙袋の中身は、奥様が握ったたくさんのおにぎり。そんなところにも、気さくでほのぼのとした人柄が伺える。
プロフィール
1973年神戸学院大学法学部を卒業後、関西大学大学院文学研究科修士課程に入学し、1975年に修了。その後、広島大学大学院文学研究科博士後期課程へ。1980年に単位取得満期退学。1991年、文学博士。1980年に神戸学院大学に着任後、1991~1992年に神戸学院大学評議員、1993~1995年に神戸学院大学教務部長、1997~2006年に人文学部長を歴任。
主な研究課題
- 日本古代の法制と古典籍の研究
- トイレの文化史的考察
- 阪神・淡路大震災避難所資料の研究
第58回 土曜公開講座 人文学部開設20周年記念「くらしの文化・こころの健康」
- 時 間: 14:00~16:00
- 場 所: 有瀬キャンパス 9号館1階 911講義室
- 受講料: 無 料
月 日 | 講演テ-マ | 講 師 |
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11月28日 | 「トイレ」から文化を学ぶ | 人文学部 人文学科 水本 浩典 教授 |
12月5日 | 心理臨床とアートセラピー | 人文学部 人間心理学科 山上 榮子 講師 |