ポートアイランドキャンパスの開設、阪神・淡路大震災フロントライン

学校法人神戸学院 創立100周年記念座談会

「都市共生型キャンパス」創成により広がる可能性
大震災の被害を乗り越え未来へ

司会 素晴らしい成績をあげておられますね。さて、それでは高校から大学へということで、岡田学長から神戸学院大学についてお話を伺いたいと思います。

神戸学院大学学長 岡田 豊基
神戸学院大学学長
岡田 豊基

岡田 私がこの大学に赴任したのが1987年(昭和62年)でした。当時の学長が倉田先生でいらっしゃいまして、1号館で先生にお目にかかったときには、舞い上がってしまい、そのとき先生が何をおっしゃったのかもまったく覚えておりませんが(笑)、それ以来この大学でお世話になっております。海外研修をさせていただいたり、大学の中でもいろんな研究・教育活動をさせていただくということで、非常に自由にさせていただいたという実感がございます。そういう風土や環境を大学、あるいは法人のなかでも継続していくことが本学のイメージとしてあるのかなと考えています。

1987年(昭和62年)は、バブルがはじけるかどうかというところだったんですけれど、志願者数・学生数が年々増えていっておりまして、私が赴任しましたときには法学部、経済学部は定員が700人というような、倉田先生が先ほどおっしゃった「臨時定員増」の始まったころでした。私は入試総務委員を仰せつかりまして、それはわずか2年だったんですが、入試の準備の作業をするのに、試験問題を地方に発送する際のジュラルミンの箱の数が、去年よりも今年の方が多い、今年よりも次の年の方が多いというような、志願者数がどんどんどんどん増えていくというようなことでした。あの時代は、いうなれば、大学にとってのバブル期だったのかなと感じております。当時、9号館と1号館との間には、畑とか、学生が下宿している建物がございまして、その間を縫うようにして9号館に授業に行ったというようなことでした。

溝口 ビニールハウスがあったですね(笑)。

岡田 そうです。それを考えますと、いまは1号館はございませんが、当時の下宿の建物のところには13号館ができ、有瀬のキャンパスとしては非常にきれいになっており、私が本学に来てまだ25年ですけれど、時代の流れを感じております。この間、大学のキャンパスが逐次整備されていった中で、2007年(平成19年)4月にポートアイランドキャンパスが開設されたわけです。その計画が立ち上がったのが2003年(平成15年)前後だったでしょうか、大学としていろんな議論をして参りましたけれど、結果的にあのキャンパスを作ったことにより、いろんな可能性が広がったのかなと思います。

司会 松本常務理事から、ポートアイランドキャンパスについてお話を伺いたいと思います。

学校法人神戸学院常務理事 松本 史朗
学校法人神戸学院常務理事
松本 史朗

松本 学長のおっしゃるように、ポートアイランドキャンパスの開設が2007年(平成19年)ですけれど、それに先立って、神戸市からポートアイランドの土地売却の話があったのが2003年(平成15年)ころですね。そこでどうするかということで移転基本構想プロジェクトが立ちあがりました。私もその一員でしたが、有瀬キャンパスに、学生がどんどん増えてきておりまして、手狭になってきていたということと、通学手段のバスの問題というのが以前からありましたので、キャンパスの拡張はほぼ限界に来ていたという事情がありました。それと、ちょうど工場等制限法が撤廃されて、それまでは、神戸市内では純粋な定員増ができなかったのが可能になったということもありまして、進出を決めたわけです。

進出が決まった段階で、プロジェクトの方でどのような大学にするか、どの学部を移転させるかというようなことで、確か2年近く議論を続けたと思います。最終的には「都市共生型キャンパス」ということになりました。これまでは神戸の大学と申しましても位置的には西のはずれということで、外部との連携も取りにくい状況だったのですが、神戸の中心地に出ていくことによって、産業界とか医療界などとの連携を深めていこうというコンセプトも打ち出しておりました。移転する学部については、当初いろいろな案が出ておりましたが、最終的に法学部・経済学部・経営学部の3学部の3・4年次生と薬学部の2年次生以上という、学年移転という形になったんですが、これはキャンパスの土地を購入して、開設が2007年(平成19年)ということを先に決めていましたので、校舎の建築期間等を考えると、学部全体の移転は難しかったということです。当初の構想には「学年移転」というのはなく、本来4学年がまとめていくべきだということだったんですが、そうしますと校舎の建築が間に合わないということ、そして財政的にもそこまで大きな負担はできなかったということもありますが、その辺り、理事長も決断に苦労されたのではないかと思います。

溝口 そうですね。大学は谷口弘行先生が学長の時代で、あのときは大学だけの問題ではないということで、高校、それから短大の教員、職員みんなに声をかけまして、全学の説明会をやったんですね。6回やりました。その2回目のときでしたか、ある学部の教授が、「そんなこと聞いてない、いま初めて聞いた」とおっしゃったのに驚いたんです。そのときまでに、2回も全学説明会をしておったんですからね。それなのにまだ、そんなことをいわれると私はびっくりしたんですが、谷口学長は実に辛抱強く、質問の一つ一つに丁寧に答えられまして、3回目のときに、それではこういうふうにやりますということで、谷口先生がおっしゃり、私がそれをバックアップする形で結論をみたんです。それから、あそこにどんなキャンパスを作るかというので、設計コンペをしたんですね。あれは面白かった(笑)。

松本 そうでした。4社か5社でプレゼンテーションをしたんですね。

溝口 5社です。1社1時間ずつで。そうすると、私ども審査に与かる者は5時間、本気で聞いていないといけない。その席で私が理事長として、投票権をお持ちの皆さんに申しましたのが、皆さん、これから5時間、居眠りしてはいけませんよと(笑)。それから、隣の人と相談してもいけませんとも申しました。5社のプレゼンが済んだらすぐに採点表を出してもらいます。そのときに隣の人と見せ合ったりしないようにと(笑)。それで、プレゼンが終わって、採点表を隣の部屋で集計したんですね。びっくりしました。日建設計が断トツの高評価だったんですね。ほかの社とはまったく比較にならないんです。日建設計のプランにあっさり決まりました。

定期試験の直前に発生した阪神・淡路大震災

岡田 本学の歴史では、少し遡って阪神・淡路大震災にも触れておく必要があろうかと思います。1995年(平成7年)の1月17日、あれは火曜日でした。

松本 あの年の大学入試センター試験の次の日だったですね。

岡田 そうですね。本学としては、震源地に一番近い大学でありながら、活断層が東の方向に走ったということもありまして、神戸の他のエリアに比べますと被害の程度は少なくて済んだということがあります。7号館で薬品等が倒れて火災が起こったり、すべての棚からすべての物が落ちていたりということはありました。図書館や研究室では蔵書を一冊ずつ書棚に戻す作業、研究室でも同様の作業をするということはありました。経済学部の松田和久先生と留学生2人が亡くなられたのは、大変無念なことでした。

震災が起こったのは、定期試験が始まる直前だったんですが、当時の私は教務委員をやっておりまして、どういうふうに試験をするかというのが問題でした。そもそも学生が集まることができないということで、最終的には各学部の判断に任されたんです。試験をすることなく認定をする学部、レポートの提出を求め、それを採点する学部というふうに分かれました。入学試験は、本学で実施できるかどうかと検討していったわけですが、JRが十分には動いておりませんでしたので、西の会場には姫路から新幹線で行く、東の会場には神戸電鉄を経由して新大阪へ出るということで対応できるようにしました。いくつかの大学に試験会場をお借りするというような状況の中で、なんとか無事に入学試験を終えられたというところでした。4月にはちゃんと入学式を迎えることができた。なんとか継続して学生の教育を行うことができたのは、よかったと思っています。

溝口 学長のお話の中で大学施設の被害は比較的少なかったというお話がありましたが、実は、やはり大きな被害があったんです。4号館から南の9号館に向かう通路の地下にあった水道管とガス管、それに電気の配管が破断してしまったんです。

岡田 そうだったのですか。

阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた高校(1995年1月)
阪神・淡路大震災で大きな
被害を受けた高校(1995年1月)

溝口 はい。その復旧と傷んだところを補修するのに約20億円が必要でした。それに、高校もひどかったですね。

八田 そうでした。短大からいただいた校舎の1階部分が全部つぶれてしまいました。私は北区に住んでおり、自宅は大丈夫だったんですが、道路の信号が消えたままになっている中、車で高校まで来てみますと、校舎が低くなっているんですね。1階がつぶれて、埋もれていた。その後、その校舎は建て替えましたが、あそこは下が長田地区なんですね。火が迫っていました。私が行ったときには、講堂に、避難されてきた人が何人かいらっしゃったんです。ところが、ここでは火に近いということで、もっと安全な方に避難せよということになったんですね。近隣の高校はすべて、震災後長い間避難所になる状況だったんですが、うちの場合は避難者がおらず、校舎自体は高校で管理できたんです。生徒の安否を確かめるのにかなりの日数がかかりましたが、被害がなかったのは幸いでした。

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