神戸学院大学の開学
人を動かした初代学長森茂樹の情熱
定員100人の単科大学から学生数1万人の総合大学へ
司会 本法人の原点という意味で、たいへん貴重なお話を伺いました。倉田先生は短大関係者としてご出席いただいていますが、大学創設時の事情をよくご存じと思います。それでは続きまして、大学の学長もされた倉田先生から、神戸学院大学創設時のころを振り返り、エピソードを交えてお話しいただきます。
倉田 本学は栄養学部だけの単科大学として1966年(昭和41年)4月に入学定員100人でスタートしました。当時は全国の大学に栄養学部はなく、国立の徳島大学に栄養学科(共学)が設置されていただけでした。だから栄養学部(共学)は本邦最初の学部というわけです。このあと全国的に広がっていったことは、ご承知のとおりです。
ところで、私が森茂樹学長にご挨拶のため初めて本学を訪問したのは1966年(昭和41年)11月でした。本当に淋しいキャンパスでしたが、森学長にお目にかかって驚きました。今後も引き続いて新学部を増設し、総合大学を目指すんだと熱っぽく語られたのです。夢の実現に向けた意気込みに圧倒され、改めて自身の決意を新たにしたのを覚えています。事実、この時すでに翌年(1967年)4月の法学部と経済学部の設置に向け、具体的な作業が進められていたわけです。
まず法学部では、森学長が京都大学医学部教授の折、法学部長であり、後に最高裁判事の重任を全うされた大隅健一郎先生(文化勲章受章者、日本学士院会員)のことです。お住まいが比較的お近くで平素からごじっこんの間柄ということもあって、京都大学の63歳の定年後は本学へ就任することを約束され、文部省(当時)への申請書類に押印されていました。しかし、大隅先生は定年の半年程前に最高裁判事になられましたので、実際に就任されたのは最高裁裁判官の定年後(70歳)でした。多くの私大から就任要請があったにもかかわらず、その折はすでに他界されていた森学長との約束を果たすべく本学へ専任教授としてお迎えできたことは、本当に有難く名誉であり心強いことでした。
溝口 そうですそうです。それね、私が最高裁の大隅先生のところに行ったんですよ。約束通り来ていただけますか、と言って。そしたら、必ず行きますと言ってくださって。
倉田 森学長は大隅先生から、本学が神戸に存在する大学という由縁からぜひとも神戸大学法学部の協力も仰ぐべしの教示で憲法の権威、俵静夫先生、政治学の権威、尾上正男先生等が決まり、また少し遅れて京都大学からは民法の磯村哲先生(日本学士院会員)等、さらに大阪大学から民法の石本雅男先生(日本学士院賞受賞者)をお迎えすることができました。次に経済学部は神戸大学の坂本彌三郎先生(日本を代表する経済学の権威者)を中心に人事が進められました。その結果、神戸大学の社会経済学の権威北野熊喜男先生、広島大学の財政学の権威山下覺太郎先生、それに神戸商科大学の経営史学の権威栗田真造先生等著名人揃いの強力なスタッフでスタートいたしました。
私が1966年(昭和41年)11月にキャンパスを初めて訪れたとのことです。六甲の拙宅から大学に辿り着くまでに半日かかりました(笑)。大学の場所が分からなくて迷っているときです。垂水でたまたま通りがかった家の表札が森茂樹名義のお屋敷を見つけたのです。ここが、森先生のお宅だと思って伺いますと、全くの別人で、同姓同名だったのですね。ご主人は「最近もう一人、あなたと同じように訪ねてこられた方がありましたよ。その森さんは伊川谷という場所におられる方ですよ」ということで、大学への道筋を親切に教えていただき、砂ぼこりのでこぼこ道を運転して、ようやく大学に辿り着いたことを昨日のことのように覚えています。大学周辺は、十数軒の農家と畑や雑木林だけだったですね。しかし、丘の上にある大学からの眺望はすばらしく淡路島、明石海峡を一望できましたね。
1号館2階の学長室で森先生にお目にかかったのですが、温和なお人柄ながら厳格な学究との印象を受けましたね。先生は73歳とおっしゃっていましたが、73歳にしてはエネルギッシュに、「後世に残る大学を造りたい」と熱っぽくおっしゃった言葉を忘れることはありません。そのとき先生の瞳が輝いて見えましたね。でも私は、1号館1棟だけの建物しかなく、2号館と体育館が建築中の小さな大学で、「後世に残る大学」と半信半疑でした。しかし、それは決して虚言ではなかったのです。お恥ずかしい限りでこの先生のモットー「後世に残る大学」は、いまも後々の構成員の指標となって根付いています。
学生募集の旅先で森学長に叱られたこと
法学部と経済学部が認可を受けて、1967年(昭和42年)4月からスタートすることになりましたが、その半年前に法学部の要員として私が一番早く就任していました関係で、もっぱら学生募集が最初の仕事でした。それこそ身を粉にして働きましたね。ボストンバッグ一つ持って家を出ますと、一週間は帰りませんでした。多いときは10日間かけたこともありますが高校回りをしましたね。ですから、今でも兵庫以西の高等学校がどこにあるかほとんど知っています。自分自身がこの大学でできることは、大学が生成発展する以外に道はないと言い聞かせて一生懸命頑張りました。ただ一つ、これはちょっとしゃくにさわる逸話として聞いていただきたいのですが、ある日、岡山駅前のホテルに宿をとって朝食をしていたときです。見覚えのある人がこちらに来るんですね。森茂樹学長です。朝の8時半頃です。高校にはそんな時間に伺っても仕事になりません。10時ごろにならないと校長先生や進路指導の先生に会えませんよね。そんな私を見つけるやいなや「倉田さん、こんなところで何をしてるんですか」と。まあ、ちょっとカチンときましたけど(笑)。そのあと「学生募集に来ています」と答えると、「そうか、それなら早く行きなさい」(笑)。まだ、9時になっていないのに右往左往したことが思い出されます。それも森先生の情熱だったのかも知れません。先生に叱られたのは、後にも先にもそのとき1回限りです。
森先生のエピソードとして、部局長会でのやりとりの光景が思い出されます。私はまだ若かったのですが出席を認められていました。会議は学長室で行われていました。いつも議論が伯仲し、それはもう真剣そのものでしたね。だんだんエスカレートしてきますと森先生がパッと上着を脱ぐんですね。威勢よくです。
溝口 そうそう。あれが癖でしたね。
倉田 癖だったのですか(笑)。私はびっくりしました。同時に顔つきも変わって「君ら、何を言っているんだ」といった調子でつかみかからんばかりの勢いで怒鳴られました。後になって思い返しますと叱咤激励だったのですね。そして、ことあるたびに「後世に残る大学」という言葉を言い続けられましたね。先生がお亡くなりになられたのが78歳だったと記憶しています。神戸の川崎病院から京都大学病院に移られ、入院中も大学の将来のことばかり考えておられました。最後の仕事として考えておられたのが薬学部の設置でした。その関係で病室に川﨑近太郎先生(大阪大学薬学部長)を呼ばれて、自分の思いを託されたのです。本当にお亡くなりになる直前まで、うわごとのように「後世に残る大学」を言い続けておられました。執念だったのですね。
それと神戸学院大学の星の形をしている校章のデザインは森先生が考えられたのです。あれは北斗七星の北斗から考えた道標(北極星)だとおっしゃっていました。旅人が道に迷ったらこの星をあてにして目的地を目指すんだと。最近、校章をあまり使わなくなりましたが、あれは残して欲しいですね。神戸学院大学が「後世に残る大学」になるための道標なんですから。
それと森先生の話で、1967年(昭和42年)か68年頃だったと思いますが、ノーベル賞の時期に突然、「ああ、今年の医学賞はこんな方が受賞されたんですね」とおっしゃったんです。そして、「僕はノーベル賞の医学部門の推薦権を持っているんですよ」と。どうもその任期は1年ごとだったようですが、その年は先生が選考委員だったんですね。ノーベル賞の選考委員と言えば大変なものです。その話を聞いたとき、先生の言葉はただの大言壮語やないと思いましたね(笑)。改めて、「後世に残る大学」とか「北斗七星」と言った言葉は、ホラやないと思いました。畏敬の念をいちだんと強めたことも云うまでもありません。そんなことを思いながら、先生との最期の別れのときに、先生の意思を継いでこの大学に一生懸命尽くそうと誓いました。
先生がお亡くなりになった後、年を追って薬学部、人文学部、経営学部、総合リハビリテーション学部が設置され、わずか46年間に7学部そしてその上に大学院研究科ならびに法科大学院を擁する総合大学に発展しました。学生数も1万人で、卒業生は6万7000人といったように、まさしく森先生の夢が叶えらてきれましたね。気宇壮大だった森先生の情熱の賜物ですね。創立当時はお金が無かった関係で校舎も少なかったけど、18歳人口急増期対策として臨時定員増にいち早く踏み切りましたので、1学年550名分(4学年2,200名)の増収を見込むことができました。おかげで校舎や課外活動施設や新学部、新学科を増設することができました。
溝口 その蓄積があったからこそ、ポートアイランドキャンパスも実現したんですね。
倉田 そうです。その蓄積がありましたのでポートアイランドキャンパスといった神戸市の中央に都市共生型キャンパスを整備することができたのです。
溝口 そうそう。評議員会のたびにこの有瀬キャンパスは統一性がないと言われたんですよ。つぎはぎだと(笑)。こちらとしてはそれどころじゃない。予算がない中で必要に応じてやり繰りをしているので、統一性の高いキャンパスなんてできるわけがない。その代わり、ポーアイを開設するときは、真っ白なカンバスに思う存分の絵が描けたわけですからねえ。
倉田 その通りです。この辺りから、大学についての話は岡田学長に続けてもらってはどうですか。
司会 その前に、短期大学のことについて、倉田先生から触れていただきましょうか。
倉田 まず問題は文芸科の衰退でした。でも、音楽関係のコースは人気があり活気が感じられたものですから、芸術関係ならという思惑で絵画に活を入れ、さらに陶芸を取り入れました。いずれも評判は良かったのですが、遺憾ながら学生の員数不足は否めませんでした。
家政科は時代のニーズにも則し、栄養士養成は順調に推移できると思えました。でも、この領域では管理栄養士の資格取得を目指すのが一般的な傾向になりました。
国際教養科は、文部省(当時)から留学生受入れの態勢が不備とのクレームがつきました。そこで、留学生別科を設置し、その結果、主として中国から毎年50人から100人程度でも、学費等の関係で大方は短大卒で帰国しました。留学生を受け入れるようになり本科の充実に寄与しました。そして、これにより更に大学(神戸学院大学)への編入希望者を期待した訳です。