森わさ物語

学校法人 神戸学院

学校法人神戸学院(学校法人神戸森学園)校祖 森わさ物語
森わさの写真

おいたち

学校法人神戸学院の前身に当たる学校法人神戸森学園の校祖・森わさの生まれた兵庫県津名郡大町村(現在淡路市木曽下八軒家)は神戸淡路鳴門自動車道の津名一宮インターから南西方向へ2キロほど行った、なだらかな丘陵地帯にある。今ものどかな田園風景が広がる豊かな地に、江戸幕府が倒れ明治時代が始まった動乱の年、1868年(慶応4年)6月4日、父岬市平、母かつの三女として誕生した。岬家は大町で醤油屋を営む家であった。わさの祖父は分家して酒屋を開いたが商売不如意となって店をたたみ、わさが生まれた頃に家族は本家の空き家屋を借りて暮らしていたという。経済的に傾いた家にあっても教育の重要性をよく認識していた市平は、子どもたちにできるだけ高い教育を受けさせるよう努めた。佐々木家へ養子に行かせた次兄の良夫はのちに産婦人科の医師となり、3番目の兄の利良は警察官となって巡査部長を勤めた後、神主になった。いずれも一定レベルの教育を受けていないと就けない職業であり、市平の教育熱心さをうかがわせる。

明治初めの日本は、女子に学校教育を受けさせることに極めて消極的であるのが一般的風潮だったが、市平はわさを大町に開校したばかりの津名郡桧原簡易小学校に入学させた。しかし、在学期間は短く、1875年(明治8年)2月、数え年8歳、満6歳8ヵ月のときに上等第5級を卒業している。当時の小学校は上等小学校と下等小学校に分かれ、各々4年間合計8年の課程となっており(各4年間は半年ずつ8級に分かれ、8級から始めて1級まで進み修了となる)、学年初から半年後に定期試験、学年末に卒業試験があった。

これは資格認定試験のようなもので、一定の基準を満たせば進級することができたので優秀な子どもは飛び級してゆき、できない子どもは落第させられた。
わさは下等小学校4年分、上等小学校2年分、合計6年かかる課程を、弱冠6歳半の身で2年足らずで修了してしまったことになる。まだ小学校へ行く子どもが少なく、ましてや女児の場合はなおさら少なかったときである。わさの聡明さは際立っていたに違いない。

だが、わさの学歴は、この上等小学校第5級修了でおしまいになる。女性は結婚して家事育児に従事するのが普通であった当時、教育熱心な岬家ではあったが、わさが兄たちのように専門的な教育を受けることはなかった。その後、裁縫塾やお稽古事には通ったであろうが、わさのように学業成績優秀でも、女性は学校教育の恩恵に浴することはほとんどなかった。

結婚・出産・そして夫の死

岬わさは1886年(明治19年)、西浦の山田村草香(現在淡路市一宮町)の森新太郎と結婚した。数え年19歳(満年齢では17~18歳)のとき、どちらかといえば遅い結婚だった。森家は岬家から北西へ3キロばかり離れたところにある旧家で、新太郎は5歳上の警察官だった。恐らく、わさの兄が警察官だった縁であろう。そして、1888年(明治21年)6月に長女、登志得(のち短大初代学長山西登志得)、1890年(明治23年)10月に次女、四津野(のち園田家に嫁す)が産まれた。夫が警察勤務だったので農作業は嫁であるわさの肩にずっしりと掛かり、外では庭男を指揮しつつ田畑で働き、家では女中を使いながら家事と育児に明け暮れる毎日を送っていた。新太郎の両親は新太郎が結婚して間もなく相次いで他界したため、わさの労働は厳しさを増したと思われるが、夫と子どもたち、そして年老いた祖母との毎日の生活は幸福であった。

しかし、幸せな日々は長くは続かなかった。次女が誕生した頃から体調を崩して床についていた夫の病は次第に重くなり、1893年(明治26年)1月28日に2年ほどの病臥生活を経て亡くなった。享年29歳の若さであった。わさは満24歳。残された2人の娘は4歳と2歳、しかも臨月のお腹を抱えていた。だが、悲しんでいる暇はなかった。夫の死から1ヵ月を経た同年2月、長男、茂樹(のち京大名誉教授。医師。初代神戸学院大学学長)が誕生し、幼子を3人育てながら高齢の祖母の介護と農作業、家事労働に従う日々となった。

当時は医学も未発達だったうえ栄養状態、衛生状態ともに悪く、若くして亡くなる人は少なくなかった。若い人の死は周囲に大きな悲しみをもたらせたが、亡くなったのが若い父親だった場合、妻たちは自活の道を持っていないため、生活の破壊に直面した。それゆえ、配偶者に先立たれた女性は否応なく再婚することが多かった。もし、森家に独身の兄弟が居たら、あるいは夫の両親が健在だったならば、わさは森家に嫁として残り、遺児を育てつつ淡路島の片隅で一生を終えたことだろう。しかし、森家には80歳を超えた祖母が一人残るだけで、その祖母も夫の死から一年後に亡くなった。これで嫁として果たすべき責任はなくなったが、わさ独りで子どもたちを育てて行かねばならない現実が重くのしかかってきた。

決意の東京留学

女性が一人で生きることが難しかった時代、幼子を抱えた若い夫を亡くした女性が独力で生きていくのはなおのこと難しく、生活力のない母親は子どもを養子や里子に出すかたちで手放すことも少なくなかった。こうした境遇の女性たちを多く見ていたに違いないわさは、親子4人がともに暮らすために、どうすれば良いかを考えた。単に親子4人で暮らせれば良いというのではない。子どもたちに十分な教育を施し成人させて、初めて親としての責任をまっとうしたことになるわけで、そのためには自分に経済力を付けなくてはならない。考え抜いて、わさが出した結論は、学校の教師になることだった。

わさが夫を亡くした1890(明治20年)年代半ば、小学校就学率の向上で小学校卒業生が増え、そうした子どもたちのため高等小学校などの教育機関が続々開設されるようになった。女子向けにも裁縫学校や裁縫科が各地に設けられるようになってきていた。そして、こうした裁縫科の教員養成のための学校として、1884年(明治17年)に現在の東京家政大学の前身、和洋裁縫伝習所、1886年(明治19年)には共立女子大学の前身にあたる共立女子職業学校が創立されていた。

図1 勉学に励むわさに寄り添う3人の子どもたち
山西登志得が描いたものか。

わさは、一旦、心に決めると何事も徹底的に極める人である。裁縫教師になるため、まだ幼い子どもたちを実家岬家の長兄のもとに預け、東京の裁縫学校への入学を決心した。東海道線は1889年(明治22年)に開通したばかりで、東京へは神戸から急行で17時間を要した。末っ子の茂樹は当時2~3歳である。幼い子どもたちを残して見知らぬ土地へ出向くには、相当の強い決意がなければできなかったことだろう。

東京では裁縫学校の速成科に学び、大町へ帰ってからも裁縫教師を目指して勉学を続けた。図1は長女の登志得が描いたと推測される母と子ども3人の絵だが、子どもたちの様子から推して、わさが教師の資格を取るために猛勉強していた頃のことを後年描いたものと思われる。背景に立派なつくばいがあるので森家の座敷であろうか。母が勉強している机に子どもたちが寄り添い、まだ幼い茂樹が母の机に手を載せ、登志得はおたばこぼんと呼ばれる髪に結っている。家族を守るためにわさが懸命に勉強に励み、母が試験に合格するか否かで生活が変わってしまう子どもたちが祈るような気持ちで母を見つめている姿は、明治時代の母子だけの暮らしがいかに心細く不安で、大変だったかを伝えている。

わさは勉学の甲斐あって1897年(明治30年)6月に小学校専科准教員検定試験に合格し、兵庫県内の小学校裁縫専科准教員の免許を取得し、同年9月から郡家の津名郡第五津名高等小学校の裁縫専科准教員として働き始めた。夫新太郎が亡くなってから4年半が過ぎていた。

教師としてのスタート

満41歳 兵庫女学校教員の頃 森わさ(中央) 1910年(明治43年)

高等小学校は、小学校を修了した者が学習を続ける場として設置された2年制の実業教育を主とした教育機関である。最初、就学率が極めて低かった女子も1900年代になると半数以上が小学校へ行くようになり、高等小学校へ進学する女子も増えていった。1900年(明治33年)に全国で20万人程度だった高等小学校在校生は、1905年(明治38年)には38万人と、わずか5年の間にほぼ2倍となり、さらなる生徒増が見込まれた。そういう意味では、高等小学校の裁縫専科教員への転身は時宜を得たものだった。高等小学校の教員になってからも、わさは勉強を続け、1年後には准教員から正教員になった。
しかし、故郷、淡路島での教員生活はわずか1年数ヵ月で終わった。当時、兵庫県尋常師範学校の教諭だった大村忠二郎から神戸市にあった夜学校の教師になることを勧められたわさは、1899年(明治32年)4月、森家の田畑を処分して一家で神戸に移った。彼女自身のキャリアアップのためでもあったが、子どもの教育の上でも淡路島よりも神戸の方が良いという母親としての思いもあった。

また学歴の上では劣っていたわさであったが、後に大阪府立清水谷高等女学校校長となる大村は、彼女の教育者としての才能を見抜いたのだろう。わさが勤務した神戸の夜学校は着任2年後に博愛女子技芸学校、6年後には兵庫女学校と名前を変え発展していった。わさも40歳ちかくになり主席教員、校長代理に就任し教育者として円熟の域に達していた。

女子教育はいかにあるべきか、求道者として

教師という仕事には完成、完璧ということがない。学校で教えた子どもたちは次々卒業し、それぞれの人生を歩んでいく。なかには、わさのように若くして夫を亡くし、つらい境遇に陥る教え子たちもいたに違いない。そうした教え子たちの境遇をみるにつけ、生徒たちに人生の荒波を乗り切る力を得させるために教育は、どうあるべきなのか。わさは、自分自身の経験を通じて深く考えたのではないだろうか。また、人生の無常を実人生で経験したことは、彼女をして宗教的な探求へ向かわせたと思われる。わさは自らの考えを深めるためにキリスト教会や寺院や精神の先達者といった人を訪ねるようになった。

最初に門をたたいたのはキリスト教会であった。1907年(明治40年)頃のことで、当時兵庫教会の牧師をしていた今岡信一良のもとに通うようになった。
今岡はキリスト教の牧師であったが、どの宗教も目指すところは同じであるとの考えで、特定の宗派にこだわらない「自由宗教」をとなえた人であった。わさは神仏に頼って現世利益を得ようとか、自己肯定して心の安定を得ようという意味で宗教を求めたのではなかったから、今岡の考え方には非常にしっくりくるものを感じた。今岡が神戸を離れた後も親交は続き、わさが自身の学園を興したときの相談相手となった。さらに、その後、京都・山科にある一燈園の創始者、西田天香をわさに紹介したのも今岡だった。西田は見返りを求めない無心の心で奉仕する托鉢生活を続けた人で、わさも一燈園に通い、学校でも拝んでトイレの掃除をする修行を実践した。

静座は森わさの教育実践のなかで重要な地位を占めているが、当時、多くの人の関心を集めていた岡田式静座法を彼女に紹介したのも今岡であった。1907年(明治40年)からの4~5年の間、わさは精神的な求道を続け、思索を深めていった。このことを通じて得た内省的、内面的な深まりは、後年、教育の現場で生かされていくことになる。

理想を求めて学校を開く

わさの内面世界での探求は、現実の学校生活の中においては逆に飽き足らない思いを高じさせることになった。折しも、実科高等女学校が設立認可されるようになったことから、公立私立の女学校が全国各地に設置されていた時だったが、資金もなく、正式の学歴と言えば小学校だけのわさが新たに学校を作ることは容易ではないと思われた。しかし、長女も次女も結婚し、末っ子の茂樹が旧制高校に進学する年齢となって、親としての責任の大半を果たしたこともあり、わさは自分の理想を追い求めるために自らの学校を建てる決心を固めた。そして、奥平野北3区88番屋敷(現在神戸市兵庫区五宮町19番8号)に校舎に転用できる木造2階建ての建物が見つかったことから、1912年(明治45年)1月23日、現在の学校法人神戸学院の前身に当たる私立森裁縫女学校を開設した。

わさがあえて自分の学校を創ろうとした理由はどこにあったのだろうか。直接の要因としては、勤務先である兵庫女学校の新任校長が教育勅語と武士道があれば教育は事足りるとの考えだったことに反対だったこと、わさがキリスト教関係者と親しかったことが大逆事件刑死者の中にキリスト教信者がいたため、教育者として批判されかねなかったことなどの事情があった。だが、そうした事情だけでなく、やはり、内面的求道を続けてきたわさにとって、精神的、内面的なことを軽視、あるいは無視している日本の学校の姿に飽き足らなかったというのが根本的な理由だったのだろう。

さらに、わさ自身のシングルマザーとして苦労してきた実人生の経験というのがある。「私立森裁縫女学校設立趣旨」には、因習が女性の境遇の改善を阻み、教養をつけにくくさせているため、軽佻浮薄で独立自重の考えのない若い女性たちが多くなっている現状を深く憂慮した上で、裁縫という技能習得を通じて「自治職業」を得ればいかなる厄災に遭遇しても打ち勝つことができると書いている。茶道華道など花嫁学校的教養も軽視していないが、裁縫技能を女性の自立の武器としてとらえているところが、わさの平らかではなかった前半生の経験を物語っている。わさが学校を創ろうとした切なる願い、それは、女性たちが不幸な境遇になっても自力で這い上がれる力を養い、不幸に負ける女性をなくすことにあった。不幸な女性の背後には必ず不幸な子どもがいるのだから、これは大変重要なことだと、わさは思っていたに違いない。創立当時に掲げられたモットー「自治勤労」とは、第一には女性が経済的自立を図ることができるバックグラウンドを作ることであった。

しかし、学校を経営して行くのは大変な仕事である。設立趣旨では、「自分は浅学非才の身ゆえ、ただ至誠奉公するのみ、うまくいくかどうかは分からないが、人のために尽くすことができれば大きな幸せだ」と書いている。学校を設立することはわさにとり、奉公すること、人のために尽くすこと以外の何物でもなかった。長女の登志得も教師をしていたが母の学校の開校に伴い、勤務していた神戸市内の高等小学校を退職して教員の一人として加わり、母を助けた。学校には教育者として生徒を教える仕事以外にも、学校経営など多岐にわたる用務がある。こちらは登志得の夫、山西助一が就任し、家族で学校のために働くようになった。

講堂で生徒に講話する森わさ 1915年

女子教育には内面的な指導が必須

裁縫女学校校舎のすぐ北に祥福寺という禅寺があった。ここは臨済宗妙心寺派の専門道場(弟子を教育・育成する寺)で、そこの老師であった碧層軒愚渓(へきそうけんぐけい)と知り合ったことは、わさを禅へと強くいざなうことになった。わさの宗教的心情は神仏に頼るといったかたちではなく、自分自身の心の在り方、生き方を自省し深めることに重きを置いていたので、禅宗との出合いは、禅こそ自分が求めていたものだという確信を与えた。わさは祥福寺に出向いて参禅するようになり、裁縫女学校を開学して2年が経過した1913年(大正2年)12月祥福寺で得度し、このとき「一切を捨てる」との発願を行なった。恵定という法名を持つ身となったわさは、まさに出家者として自分の全てをなげうって生徒のために尽くすことを仏に誓った。禅宗の教えは、わさを通じて裁縫女学校の教育に大きな影響を及ぼした。「報恩感謝」「自治勤労」と並んで森女学校で重視された言葉、「照顧脚下」も禅宗に由来する。意味するところは自分の足元をよく見よ、まず自分の足元を見て自分のことをよく反省せよということで、意味を転じて「履き物をそろえましょう」、といったふうにも使われる。「照顧脚下」と大書した大きな木の板を学校の昇降口に置き、生徒の目に触れさせて、その奥にある意味をおのおの気づいて欲しいと、わさは願った。

また、座禅に似た静座も生徒に教えられた。静座はわさが座禅と岡田式呼吸法から影響を受けて自ら生み出したもので、1916~1917年頃に導入された。わさは毎朝、生徒と一緒に静座を行なった。朝の短い時間であったが静座をすることで心を静めることを習熟し、何事にも動じない信念ある女性となるようにとの願いからである。生徒にとって静座は辛く、とくに寒いときなどはなおさらであったという。

校舎が最初に増築されたとき正門横に安置された石の地蔵も生徒たちが自然に「報恩感謝」する気持ちをはぐくむ縁となった。地蔵は、わさのたっての要望により碧層軒愚渓師のつてでもらい受けたもので、生徒たちは登校して地蔵の前を通るとき手を合わせて拝んだ。これは日本人の持つ自然な所作だったが、地蔵に手を合わせる気持ちは「報恩感謝」(全てのものに感謝し、いただいている恩に自ら報いること)そのものだった。寄宿舎として校内に設置された馥郁寮(ふくいくりょう)も、あたかも禅宗の道場のような造りで、わさは生徒とともに寝起きし、本当の教育は寮でこそ成し遂げられるとして、自分の全ての時間をかけて指導した。

48歳頃の森わさ 1916年頃

学校に地蔵が鎮座し、毎朝静座をする森裁縫女学校の精神面を重視する教育の在り方は現代から見ると古めかしく感じられるかもしれないが、当時の親たちには歓迎された。それは女性の地位が社会的にも家庭的にも低いため、娘たちがいったん親元を離れれば、常に堪え忍ぶことを余儀なくされる日々を送らねばならないことを母親たちが身をもって知っていたからでもあった。さまざまな困難に耐え忍び、苦しみや悲しみのなかから人生を切り開いて行くためには心の持ち方が重要で、精神的な陶冶が必須なのだ。わさ校長の人となりに接して娘を預ける親たちも多く来るようになった。

発展する森女学校

わさは得度したときの発願どおり、生徒の教育に全身全霊を捧げた。神戸学院大学附属高等学校には毎年4月に撮影していた古いクラス写真が残っているが、一部のクラス写真には生徒の名前とともに親の職業や家族関係が鉛筆で細かく書かれている。「呉服商」「魚商」「何年、父死」などと書かれたものを読むと、わさが生徒一人一人に気を配っていたこと、彼女の子どもたちと同じく親の居ない生徒への思い入れが深かったことなどが知られる。

いわば女手一つで創立した森裁縫女学校は、最初の頃こそ赤字が出たというが、すぐに順調に発展していった。寄宿舎もあることから神戸市内だけでなく淡路島をはじめ遠方からも生徒が集まるようになった。学校の定員も、開学2年目の60名から次第に増え、10年後には2倍以上になった。さらに1923年(大正12年)には高等女学校(定員100名)も開設され、裁縫学校兼女学校だった当初の形態は、五年制の高等女学校へと飛躍を遂げていった。そして、学校評価の高まりとともに入学も難しくなり、1930年代前半では競争率は3倍前後という難関となっていた。

自らの理想を実現する学校に、多くの生徒が集まってきたことは創立者として大変喜ぶべきことだった。しかし、わさは恬淡としていた。般若心経にいうところの「不増不減」(すべてのものは空であるから、増えもしないし減りもしない)である。わさは応募者の多寡で一喜一憂することなく、「今年は応募が多くても来年は少ないかも知れないのだから」、と、うれしがりもしなかったという。わさは預かっている生徒たちをより良く育てていくことだけに専心しており、娘婿の山西助一によると、お金の話をするのが嫌いだったという。

裁縫女学校を開設したとき43歳だったわさは、学校の拡大とともに教育者としても人間としても円熟味を増していった。

「にこにこと 口引き締めて 腹広く 掃除きれいに よき返事せよ」
これは、わさが日常訓として掲げたものだが、この簡単な文言に、報恩感謝、自治勤労、照顧脚下、忍耐など常にわさが修身の授業で繰り返し教えてきた内容が全部詰まっていることに驚かされる。そして、示している内容は大変深いところがあるのだが、平易な言葉で具体的な指示をしているため、小学校を卒業したばかりの生徒にも理解できる点は、まさに彼女の教育者としての面目躍如である。生徒たちに教えるための短歌を、わさはいくつも詠んでいる。

「梢なるあしたの花にあこがれば 足やすべらん心そらにて」
「登り行く学びの山の道けはし 一足毎に心して行け」

この二つは、都市の発展と大衆化で軽佻浮薄の度を加える世相におもねることに警鐘を鳴らし、照顧脚下を訴えたものだ。次のようなものもある。
「神仏のみまもりありと信じつつ日々の行ひ種蒔と知れ」

わさは卒業生のため毎年の卒業アルバムに揮毫して、はなむけの言葉を贈っていた。そして、よく働くことを彼女らに求め、働くことは報恩感謝であると言って、そのように生きることを奨励した。そして、何かあったときは、話をしにくるように、と付け加えることを忘れなかった。

わさは学校を教育機関としてよりも道場のように考えていた。だが、道場といっても単に精神面のみを鍛える場所だったのではない。実際に掃除や裁縫、学業、体操など具体的に心身を使って行うことを通じて精神的にも陶冶されていくというのが彼女の考えで「にこにこ」するのも「よき返事」するのも、そうすることを通じて「照顧脚下」し、さらに「報恩感謝」の念も心に刻まれてゆくことを、わさ自身、よく知っていたからだった。

晩年の森わさ

晩年のわさ 83歳

わさが68歳となった1936年(昭和11年)、現在神戸学院大学附属高等学校がある会下山(2016年神戸市中央区に移転)に新校舎が完成し高等女学校が移転、それまでの平野校舎には森女学校と、新設された神戸市森女子商業家政学校が加わり生徒数は格段に増加した。学校の評判も良く1940年前後の入学試験の競争率をみると、4倍から5倍と高くなっていた。これが平和な時代なら、さらに校地拡張して校舎を新築し定員を増やしたのだろうが、戦争のため実現不可能であった。学校も戦争に巻き込まれて、生徒たちも農繁期の勤労動員、軍需工場への動員などに応じるようになって、学業は二の次となっていった。

そうしたなか、77歳の喜寿を迎えたわさは引退を考えた。そして、敗戦の色濃い1944年(昭和19年)の歳末、それまで森わさ個人経営だった学校を財団法人とする申請が文部省に提出され、翌1945年(昭和20年)6月、空襲で全国が焦土化するなか、財団法人神戸市森高等学校の設立が許可された。そして、創立時から母親の右腕となって学校を支えてきた山西登志得が校長に就任し、わさは1945年11月20日に依願退職して第一線を退き、名誉園長となった。43歳から77歳に至る34年間、心血を注いだ学校は、わさの努力と真心が通じて大きく発展していた。

わさは、それまで会下山に移転した際に隣接地に建てられた校長住宅に暮らしていたが、引退後は京都大学医学部教授であった長男、森茂樹宅へ身を寄せ、京都で隠居生活を送ることとなった。学校の方は山西登志得と夫の山西助一が教育・経営両面で手腕を振い、戦後の学制改革に応じて旧制女学校を新制の中学校と高等学校に改編した。さらに1951年(昭和26年)には短期大学の設置申請を出して1952年(昭和27年)11月1日、創立40周年祝賀式典当日に新発足させた。このとき、わさは満84歳であったが、自らの胸像の除幕式に出席して挨拶し、生徒や卒業生、教職員たちに元気な姿を見せて喜ばせた。

当時はまだ日本人の平均寿命は短く、女性の寿命が65.5歳だった頃である。80歳を超えたわさは大変な長寿に恵まれたのだった。それは、わさの静座による呼吸法やよく働くことを自らに課す生活ぶり、そして、しばしば六甲連山の登山など運動をしていたことが功を奏したのだろう。最晩年に至っても、わさはよく歩いていた。そして、40周年記念式典から約1年が経過した1953年(昭和28年)10月12日、わさは亡くなった。亡くなった日も、朝に起床する物音がして普段と変わった様子がなかったが、しばらくして静かになったので家人が部屋へ行って呼びかけたが返事がなく、障子を開けて入ってみると火鉢に向かうようなかたちで亡くなっていたという。享年、満85歳4ヵ月の大往生であった。

三徳服
日本・中国・西洋の服装の長所を取り入れて、わさが考案

わさの死後、蔵書の間から時折、封筒に入ったまま封も切られていない古いお金が出てきた。
それは、校長としてもらっていた給料袋で、わさが質素な生活を送っていたこと、お金には無関心であったことを物語っていた。それは、いつも簡素で動きやすい「三徳服」を身にまとい、学校のトイレを掃除し、ゴミを誰よりも早く拾っていたと言われる、わさ校長らしい置き土産だった。わさは、入学したばかりの生徒も感じる、身についた威厳の持ち主であり、多くの人々の尊敬を集めて藍綬褒章などの公的表彰も多く受けた人だったが、名誉についても恬淡としていた。

わさの長女登志得と夫、助一が短期大学設立を申請したとき、新時代にふさわしく男女共学にする計画があったが、わさは、あくまで女子教育の場であるべきだと共学化に反対した。
わさは、短大を創るより、むしろ小学校を創りたいとの意思を持っていたというが、その思いは人づくりを基本に教育者としての道を歩んだ人らしく、また、女子教育にかけた思いが大変強いものだったことがうかがわれる。幼児を抱えて夫に先立たれ自立するまでに払った苦労、女ゆえに軽んじられた経験など、実人生で味わった辛さは、教師として生徒に向き合うというより、人生の先輩として、わさを生徒たちに向き合わせたのではないだろうか。波荒い人生行路で難破しかねない現実を身をもって体験したからこそ見えた世界が有り、その見えた世界から彼女は生徒たちを教え導いていたのだ。

わさが私財を投げ出し、リスクを冒して自分の学校を創ったのは、国家のため、立身出世のため、良妻賢母になるため、といった、どこか物質主義的な臭いのする目標をかかげた教育ではなく、一人一人が人生の深い意味での幸福を得るため、生徒への愛情に満ちた親身な教育をしたかったからだった。

わさの85年の生涯は、45歳で得度したときに誓った、全てを捨てて人のために尽くすという発願どおりの一生であった。教師という天職を得て仕事一途の人生となったわさであったが、まだ子どもたちが小さいときは育児、とくに良い教育を受けさせることに腐心する母親でもあった。3人の子どもたちに立派な専門教育を受けさせたわさは母親としてのつとめを立派に果たしたのだ。

子どもたちとわさとの関係は、ともに不安で苦しい日々を過ごしたためか密接であった。長女の山西登志得が夫の山西助一とともにわさの学校を全面的にサポートしたことは前述した。登志得は母親とともに学校に寝起きして生徒たちの指導に当たり、最後にわさを看取った長男の茂樹も母親宛に頻繁に手紙を書いた。附属高等学校校長室に茂樹が海外渡航中にわさにあてて送った手紙が残っている。美しい珍しい風景を母に見せたかったのだろう、きれいなカードや絵はがきがたくさん送られている。茂樹は医学部教授として多忙だったこともあって、わさの存命中に学校を手伝うことはなかった。しかし、没後17年を経た1965年(昭和40年)、県立山口医科大学学長を辞任し、神戸学院大学の創設の仕事に着手して、翌1966年(昭和41年)、大学を神戸市垂水区伊川谷町(現在神戸市西区伊川谷町)に開設し、森茂樹の大学設立前後の奮闘については別項に譲るが、創立したからには「後世に残る大学」、総合大学となることを目指した。遠大な目標を実現するため多忙な茂樹は京都の自宅に帰らず、学長室で寝泊まりしてほとんどの日を過ごした。当時、70歳を超えていた茂樹が、明石の市場で魚や野菜を買ってバスでキャンパスに戻る光景が見られたという。まるで、子どもたちに母親が誓った発願が受け継がれたかのようだ。

長い歴史を有する日本の私立学校のなかで現存するもののほとんどは、宗教団体や富裕な民間人、著名人、企業、地域団体が設立したもので、庶民的階層に属する個人、しかも女性が設立した学校が、長い風雪に耐え、総合大学まで発展した例は寡聞にして聞かない。わさが生徒たちのために献身したことが本法人の基礎である。彼女を支えて女学校を軌道に乗せ、短期大学を設立させた登志得と夫の山西助一、そして、大学を作ることで、その遺志を大きく発展させた茂樹という、子どもたちの学校に対する献身がなければ、恐らく今日のような姿にはならなかったことだろう。わさは優れた教師であったが、自分の思いを深く理解する子どもたちを育んだ点において、素晴らしい母親でもあった。森わさ一家の献身的な貢献が、現在、附属中学校・高等学校を入れて、およそ1万1千人あまりの生徒・学生を擁する学校法人神戸学院の基礎をかたちづくったのである。

森わさ顕彰碑