本学学部生・大学院生を対象に実施した「『森茂樹物語』を読んで感じたことを自由に表現してみよう」企画に、66点もの作品をご応募いただきました。
厳正なる審査の結果、下記の通り、優秀賞を決定しました。
私がこの学び舎に通い始めて早いもので2年が経とうとしている。未だに受験の時の緊張感、使った教室、合格表示を見た時の感動や喜び、入学式のドキドキや期待、不安、全てが鮮明に思い出せる。そんな私もこの2年足らずで多くの成長が出来たことを実感出来ている。今回の文章では森茂樹物語を読んで、改めて自分の軌跡を振り返った心の内や記憶を綴っていこうと思う。
まず、私は大学に入って最初に挑戦したことがある。それは「歌い手ライブへの出演」である。ことの始まりは高校3年生の九月にまで遡る。当時受験生だった私は息抜きに友達に誘われ、友達が出ているライブへ行ったことがあった。そこで私はステージの上で「一般人のはずの友達がキラキラしている姿」を見てしまった。私はその姿に強い憧れを抱き、「いつか自分もこうなりたい」と思った。そして、受験も終わり、大学に入学したタイミングで一歩踏み出し、やってみることにしたのだ。 知り合いの主催に「出させてください」のお願い文を送り、悩みに悩んでセットリスト(ライブなどで歌う曲の順番)を決め一生懸命練習をし、本番に望んだ。しかし、結果はボロボロ。歌の基礎も出来てなければまともに歌い始めて半年も経っていない人間が出たのだから当然である。 音程は合っていないし、ステージパフォーマンスも出来ていない、曲の合間のMCトークもグダグダ…そんなこんなで散々だった、それは自分でもわかっていたが、私自身、一歩踏み出してやり遂げたことに対しての達成感が何よりも強かった。 初出演から現時点で1年半近く経つ。出演回数は6回にまでなり、歌の技術は遥かに上達し、たくさんの人から褒められるようになり、ついに知り合いからも出演のお誘いをもらい年明けから出演が決まっているものもある。これは大学になってできた周りの友人が励ましてくれているのもあり、未だに続けられていることである。
また、ハンドメイドという分野も私が大学に入ってから大きく成長を遂げたと言えよう。大学の授業にて「大学生活」という授業があり、そこで大学生活中にやりたいことのリストアップなどをした事があったのだが、その中の一つとしてあったのが「ハンドメイドの拡張」である。当時の私はライブに出た時の物販で少し売るぐらいのもので技術もまだまだの部分が多かったので、さらなる技術と活躍の増加をしようと思ったのである。その一環として三ノ宮でのハンドメイドイベントに顔を出し、ほかの作家から技術を教えていただき、インスピレーションを得ることだった。さらに、2年次生になってマーケティングの授業によって「業務委託」というものがあることを知り、ハンドメイド作家の多くのあり方、さまざまなマーケティング戦略を知り、自分で委託先を探し、業務委託販売を開始し、マーケティング戦略を用いて求められるデザインを研究し、ライブの物販などでも売上が向上した。 更には友人知人からのオーダーメイドの依頼も増え、今なお成長し続けている実感が出来ている。
また、神戸学院大学にはさまざまな思想や意見、価値観を持った面白い人が多数おり、グループ活動を行う授業を通してそんな人達と多く触れ合う機会があり、私自身の世界を見る目や考え方、価値観も変わっていきつつある。多種多様な授業を受けていく中で今までに存在すら知らなかった世界や業界、もののあり方を知っていく中で知見が広がり、多くの考えが出来るようになり、その学びは今後将来において間違いなく役に立つものだと思っている。
私は前述のどの成長もこの神戸学院大学だからこそ出来たものだと思っている。神戸学院大学の先生方や授業だからこそ、神戸学院大学ポートアイランドキャンパスの立地だからこそ出来たこと、そう感じているのである。逆に言えば、他の大学であればここまでの成長は出来なかったであろう。 創立者、森茂樹先生の「後世に残る大学」という信念があり建てられたこの大学だからこそ、私の成長や新しくやることを始めるための一歩は作り出されたのだと思う。
これは、私自身のこれからの展望だが、私はまだまだ未熟な部分も多く、成長の余地が充分にあると思う。大学生活も残り2年と少し。森茂樹先生の志に恥じぬようにこの先も学びと成長を重ね、有意義な大学生活を送り、世のために働き、人を導いて行けるような人物になりたいと思う。
また、森茂樹先生という素晴らしき人物がいた事も人々に話し、神戸学院大学の素晴らしさ、通う人々の志の高さも広げていけたらいいと思っている。
森茂樹先生は幼い頃から、当時の他の家と違う境遇の中で生きてきた。特に、留学先のプラハから義兄と姉に送った手紙の言葉から強く印象付けられる。「人の性質や性行は天性もありますが生後の境遇が大いに関係しております。天地は悠々と運行しております。人事と無関係のように!人生は愛や怨や熱さの多いほど人間味があり、面白いのです。生き甲斐もあるのです。」と、このように表現できる経験を積んだ人は中々いない。森茂樹先生は生後より、母の森わさ先生が夫の新太郎さんを亡くしたことから、家族を養うために必死であった姿をよく見ていた。後に病理学者として医学の道を志した森茂樹先生には、寂しさや孤独という感情が強かったかもしれないが、何より母の努力する姿が、後の人生に大きく影響したことだろう。
そして、森茂樹先生は寂しさや孤独という感情が強い中にも、愛情を受けていたことは感じていたのだろう。森家を背負う立場になることから、教師として忙殺されていた母より2人の姉以上に気を入れて育てられていた。「謙譲な心と何処までも奮闘し発展する精神力が盛んに躍動しております」と、後年サンフランシスコから母に送られた手紙にはある。相手に対して謙虚な心で接しながらも、自らに対しては厳しく努力して今後の人生を発展させていくことを強調して育てられていたのだと思われる。そうでなければ、義兄と姉に送った手紙の言葉の表現を使うことはないだろう。
病理学者として医学の道を志した森茂樹先生は、幼い頃からの母の姿と教えを胸に努力することを怠らなかったのだろう。その結果が現れたものとして、京都帝国大学医学部に進学したという実績がある。この成果は、母の教えにある、努力して人生を発展させることを体現させた一つの結果である。また、当時、日本の病理学研究において最先端の研究が行われている藤浪鑑教授の研究室で学ぶことが出来たことは偉大なことであったのだろう。進学だけでなく、森茂樹先生が望んだ研究室に入ったのであれば、とても名誉なことである。生体染色のテーマで研究を行った森茂樹先生は助手、助教授となり、博士号を受けて、第二回ウィルヒョウ記念賞を授与された。結果、病理学者としての人生をスタートすることが出来たのである。同じ境遇にある人が他にいたとしても、努力を重ねて母の教えを体現できる人はそう中々にいない。母の愛情を幼い頃からよく理解したというのがよく表れている。母が創立していた森裁縫女学校は、森茂樹先生が研究に全力を傾けていた中でも大きく発展していった。しかし、経営や資金の面では苦労していたのである。この時の母を助けることが出来ていなかったのを後悔していたという側面があった。これは、母が厳格な人であっても愛情を確かに受けていたことをさらに強調させたことであろう。
その後、藤浪鑑教授の娘の和さんと結婚して、熊本医科大学の教授となり、さらに父親となった森茂樹先生には、ただの研究者として終わらせたくない野心が誰よりも強かったのだろう。その一つが念願であった欧州への留学である。当時、研究者であったと言っても、教授として一つの結果を作り、家族がいたのにもかかわらず、「医学界の一巨頭」となることを目指していたのである。その思いはこの頃に親族に宛てた手紙にも書いていた。そして、自分の人生において、「妥協」という言葉を許さなかった人であろう。苦難の道を進んできた自分と欧州の研究者たちと比較して、経済的や社会的に苦労してきた人が多くいたことを森茂樹先生は知った。そして、その状況を目の当たりにしていたことを多少の誇張表現があっただろうが、親族への手紙に書いているのである。努力することを怠らず、妥協を許さなかった姿勢は、母からの教えを強く影響を受けたものであるのだろうと思われる。
欧米留学での学びは、その後の森茂樹先生の人生にまた新たな結果をもたらすこととなった。欧米留学で新たな知見を得た森茂樹先生は、帰国後はかつて志した病理学の研究から自ら退き、内分泌と腫瘍、体質学の研究を志した。だが、同じ医学の道であることは変わらない。「医学界の一巨頭」となる道を歩み続けた。そして、森茂樹先生の考え方と結果がより強く表れたのが、体質医学研究所の設置である。当時、戦時下であった日本では、強兵のために健康増進を推し進めていた。世の中の流れに合ったものでもあったが、四つの学部を設立し、かつ体質学に関する多くの学問の研究を進めることが出来る研究所とした。そして、これまでの留学では親族から援助を受けていたが、森茂樹先生はこの研究所を設立するにあたり、有力者や熊本県、そして当時の政府からも援助を受けたのである。これは、森茂樹先生がこれまでに打ち立ててきた功績と努力の姿勢が、親族だけでなく多くの人に認められたことを表している。そして、「真のロマンチスト」と表現されたことは、母の教えを基に生きた森茂樹先生を象徴する言葉であろう。
その後、京都大学、関西医科大学、山口県立大学での教授と学長を経験してきた森茂樹先生は大学の設立を計画し始める。森茂樹先生がなぜ大学設立の夢を突然言い出したのかは分からないものであったとしても、野心と努力はどんな時間を経たとしても強いものであったのだろう。そして、時代の流れを見た上で夢を持っていたのだろう。大学設立へと動いていた1960年代後半はベビーブーム世代が大学に進学する時期にあたる。大学設立のタイミングとしては、またとない機会であろう。この文章である筆者の私も、この点においては少し共感できる。そして、半ば強引に進めていったこの大学設立計画も、「神戸学院大学」を設立するという形で一つの成果を得る。周囲の人には無謀と思われていた大学設立は成し遂げられたのである。教育への熱意がこれまでの大学の教授と学長の経験、そして何よりもかつての欧米留学で海外と日本の教育や研究の差を強く感じたことが表現されたものであろう。
神戸学院大学の建学の精神である、「真理愛好・個性尊重」は母の「自治勤労」の考えに相通じる点があることから、母の教えの影響を強く受け、言葉として体現したものであるのかもしれない。幼少期の母の教えのように、相手に対して謙虚な心で接し、自らに対しては厳しく努力して今後の人生を発展させてきたことは、森茂樹先生のこれまでの人生の中から明らかである。そして、その思いとこれまでの経験を建学の精神に込めたのかもしれない。
創設期の神戸学院大学は、学生を確保するにはあまりにも人数が他大学と比べて少ないことや、資金難であったことはこれまでの森茂樹先生の人生の中で大学設立の次に困難なことであっただろう。しかし、夢を最後まで持つことが出来たことや教職員の人と語り合うことが出来た時間があったことは苦しさの中の幸せだったのだろう。この世を去る最期まで夢を持ち続けられたのは、妥協を許さなかった森茂樹先生の人生そのものであるだろう。
森茂樹先生の人生には、数々の苦労と困難、そして得られた結果がたくさんあるが、何よりも幼少期より受けてきた母の教えが強かったことであろう。相手に対しては謙虚な心で接し、自らに対しては厳しく努力して今後の人生を発展させていくことを重要とした母の教えを体現させた人生であろう。