フィールドワークを通じて人から学ぶ楽しさや感動を経験してほしい
沖縄県糸満で、海とともに生きる人々についてフィールド調査
私の専門は文化人類学といって、文化や社会のあり方を調査研究することを通して、人間について考える学問です。大学院時代に、糸満という沖縄の漁師町の魚市場で、色鮮やかな魚が並んでいるのに興味を持ち、糸満の魚の民俗的価値世界を調査することにしました。
現地調査のことをフィールドワークといいますが、文化人類学では、現地の人々と一緒に生活しながらその土地の文化を学ぶことが多いです。糸満は、男性が魚を獲り、女性が魚を売るという、性別による仕事の分担が行われてきた社会でした。私は、まず、魚屋で手伝いをさせてもらい、魚売りの女性たちのもとで、糸満の暮らしに根付いている様々な文化を学びました。魚のことには本当に詳しくなり、当時覚えた300近い海洋生物の方言名が今でもすらすら口をついて出るほどです。
魚を売る女性たちの次に関心を向けたのが、魚を獲る男性たちのことです。糸満の漁師にはこの青い海がどのように見えるのだろう、そしてどのように海に向き合ってきたのだろう、という「問い」を立てて調査を始めました。漁師から話を聞くなかで様々なことが見えてきました。たとえば、糸満の年配の漁師には、風を読み、漁場や魚を読み、潮を読んで漁をする人がいました。彼は、周辺海域の魚の行動や海底の地形、地質などを詳細に把握していました。精度の高い機器もない第二次世界大戦終戦直後から、延縄の縄を引き上げる時に、その長さを両腕を使って測ることで水深を測ったり、延縄にかかる魚の種類から地質が砂利なのか岩場なのかなどを判断したりして、海に関わる知識を自力で獲得してきたのです。そして、日々海を読み、より詳しく海を知ることで確かな漁獲につなげていました。
また、私は、海への向き合い方の変容にも関心をもちました。糸満の地先の海は沖縄の中でも最も大規模に埋め立てが進んだ海域の一つで、その影響を受けて海の環境は変化しました。また、魚群探知機やGPSなど、漁撈に関わる技術も進歩しました。こうした移り変わりに漁師たちがどう対応し、その中で「海を読む」営みがどう変わっていったのかに着目したのです。これら糸満での研究成果は、著作『海を読み、魚を語る:沖縄県糸満における海の記憶の民族誌』(2015年、コモンズ)にまとめています。
「歴史」に書かれていない記憶を残す
糸満での調査の傍ら、戦前、沖縄の人たちが出稼ぎに行っていた南の島々へと調査領域を広げました。同じサンゴ礁の海を抱く東南アジアやミクロネシアで沖縄の漁師たちはどのような活動をしたのか、人の移動や漁業を通じた交流について研究したいと考えたのです。
調査地として選択したのは、ミクロネシアの島国、パラオ共和国です(現地名ベラウ)。最初は漁業に焦点を当てる予定でしたが、現地に行ってみると別の関心が湧きました。パラオは、1914年から1945年まで日本が統治し、多くの日本人が移住したため、いまだに社会の様々なところで日本の影響が見られます。調査時の1990年代末から2000年代初頭、パラオのお年寄りたちはパラオ語と日本語のバイリンガルで、テレビのある町ではNHK国際放送を観ていましたし、パラオ語の中には「スイドウ」「センセイ」など、日本語が外来語として取り込まれています。また、パラオは戦場になり、人々は空襲や飢えに苦しみました。それだけ強い影響を及ぼしながら、現在の日本でパラオについて知っている人は多くありません。日本統治時代を生きた人たちがどんな経験をしたのか、パラオの人たちから話を聞き、記録しておく必要があると感じました。
いくどもパラオに通って調査を行い、数年後、パラオ国立博物館の客員研究員として活動する機会を得ました。ちょうど展示を一新するプロジェクトが開始され、日本統治時代の歴史展示作成を任されました。インタビュー調査や資料収集を進めましたが、当時を知る存命中の人は多くはなく、写真や文書、生活道具などもあまり残っていないなど、調査は難航しました。それでも何とか50人を超える人々へのインタビュー調査を実施しました。資料収集は日本でも行い、かつてパラオに住んでいた日本人からも協力を得ました。
展示が公開された時、パラオの人からは「パパやママのストーリーだ」ととても喜んでもらえました。資料の一つ、パラオ人の巡査(巡警といいました)が写っている当時の日本の絵葉書を見たお年寄りが、「〇〇が写っているね」と即座にその人の名前を口にしたことも印象的でした。日本では単なる絵葉書でも、ここでは生きた人にまつわる血の通った記憶という、まったく別の意味を持ちます。日本統治時代の記憶を書き残すことの重要性を改めて感じました。
フィールドワークの経験を通して成長する学生たち
フィールドワークでの経験は、私にとって重要な意味を持っています。学問上の成果をあげることができた、というだけではありません。現地の人は、他所から来た私に対して友だちのように親しく接してくれ、多くのことを教えてくれました。感動するような学びがたくさんあり、「人から学ぶことはこれほど面白いのか」と心の底から思わせてくれたのです。研究したというより、育てられたと感じる経験でした。
学生にも、人から学ぶ楽しさや感動を知ってほしいと考え、3~4年次のゼミでは、自分なりのテーマを持ってフィールドワークをしてもらっています。「旅に出て、何かに出会ってきなさい」と言い、学生は思い思いの場所で、研究テーマを探します。たとえば、三重県答志島に行った学生は、「寝屋子制度」という、地域の少年たち数人が共に一つの家で寝泊りし、その家の夫婦を第2の親として育ててもらう慣習について調べました。「島全体が家族のようだった」というのがその学生の発見でした。そして、島全体が家族の絆で結ばれることで、どのような特徴をもつ社会になっているかを、学生の住む神戸との比較から考察しました。徳島県の限界集落を調べた学生もいます。「限界」という字は切迫した印象を与えますが、話を聞いてみると、同じ地域に住む人々が互いを思いやり、元気に畑仕事をして、日々の糧を得ることに喜びを感じていることを知りました。この学生は、「限界集落を守る」ということは、地域への愛着や人と人との温かい関係など、その集落がもともと持っているものを育てることだと発見したのです。
学生たちは、生きてきた環境も経験も異なる様々な年齢の人々から学ぶことを通して、自然に相手を尊敬し、もっと深く理解したいという気持ちを抱くようになります。世界は自分の知らないことばかりだと気づいて、世の中への興味が高まり、生きる楽しさをより感じられるようにもなるでしょう。また、フィールドワークで学んだことや気づきを卒業研究として論文にまとめる中で、伝えたいことをデータに基づいて論理的に表現する能力も身につきます。一人ひとりが、人間として成長できる学びの場であるよう、今後も力を尽くしたいと思っています。
Focus ㏌ lab
-研究室レポート-
2年次のゼミでは、本学の教育に長年ご協力いただいている明石市大蔵町でのフィールドワークを行っています。地域のお祭りに参加させていただいたり、年配者にインタビューを行ったりして、人々の言葉やふるまいから魅力的な地域社会の姿を体験的に学んでいます。地域に受け継がれてきた行事や住民同士の温かな関係など、地域の人々から学んでほしいと思っています。大蔵町での学びや経験を面白いと感じた学生は、意欲的に自分の足でフィールドを探しに行くようになります。そうやって、自分の探究心と直接体験によって学びを深めるのが人類学ゼミのスタイルです。
プロフィール
1995年 京都大学教育学部卒業
1997年 京都大学大学院人間・環境学研究科修了
2002年 京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学
2006年 博士(人間・環境学)取得[京都大学]
1998年-2000年 日本学術振興会特別研究員(DC2)
2002年-2004年 京都文教大学教務部教務課教務補佐員
2004年-2007年 Belau National Museum, Visiting Researcher
2007年-2010年 国立民族学博物館先端人類科学研究部機関研究員
2010年-2013年 日本学術振興会特別研究員(RPD)
2013年- 神戸学院大学人文学部准教授